【小説】七割未満 22
俺はなんてだめな人間なのだろう。
帰り道、空を見上げても曇っている。月も星も見えない。
いろんな人に笑顔を向けた。初タイトルに挑む川崎さんに。初タイトルを獲った木田さんに。そして三段リーグに入ったつっこちゃんに。社交辞令ができるほど大人になって、そういうところは成長したのに、俺だけが何もない。
この一年ほど、ずっとこんな感じだ。将棋界ではいろいろなことが起こるけれど、自分は蚊帳の外だった。勝率は七割。絶妙なほどに、いいところで三割負けている。
このまま普通の中年になって、成績が落ちていって、引退するだけの人生だろうか。
ドボルザークが鳴る。着信だ。
番号は、見知らぬものだった。
「はい、辻村です」
「ああ、辻村君か。栗本だ」
「……え、あっ、はい」
会長だった。今年代わった、新会長だった。
「あー、あれだ。単刀直入に言うとね、電将戦、次君出て」
「はい?」
「最強ソフトと戦ってほしいんだ」
電将戦。プロと将棋ソフトによる戦い。
「あの、あれって引退棋士が……」
「元タイトルホルダーが二年連続で負けたんだよ。もう、現役棋士しかないだろう。ちなみに辻村君には先鋒をやってもらうから」
「え、あの……」
「まあ、今とは言わないから、早いうちに返事聞かせてね」
えらいことになってしまった。どうやら俺は、初めて強豪ソフトと公の場で戦う現役棋士の役を頼まれているらしい。つまり、初めてソフトに負けるかもしれない、そういう役を。
自宅に、見たことのないごつごつとしたパソコンが運び込まれてきた。中にはすでに対戦相手、「掟糘(おきてすくも)」がインストールされている。
「これ、もらえるのか」
「そういうことにしました。それぐらいしてもらわないと」
「将棋専用機ってとんでもないわね」
家には川崎さん、皆川さん、魚田君が来ている。若手代表として出る以上、みじめなことになるわけにはいかない。あと何人かに頼んで、「チーム辻村」を結成した。
掟糘は前回のソフト大会では五位だった。棋譜を何個か並べたところ、随分と攻めっ気が強いことが分かった。少々の無理攻めでも、終盤力で何とかしてしまう感じだ。中盤まで互角ではやばい、ということである。
「あ、木田さん着いたって」
川崎さんはメールを確認すると、部屋を出て行った。魚田君がパソコンのセッティングを続けている。なんでもオンラインゲームをするために専用機を組み上げるほどらしく、かなり詳しいようだ。将棋はどうしたと思わなくはないが。
「よし、そのままそのまま」
「あ、天井ぶつかりそう」
川崎さんと木田さんは、長机を運び込んできた。会館でいつも使っているのと同じタイプだ。
「うわ、本当に持ってきたんだ」
皆川さんが目を丸くしている。たしかに、これはさすがに準備が良すぎる。
「初めてのことだし、できる限りのことをした方がいいだろ」
長机を盤の横に置き、向こう側に木田さんと皆川さんが座った。そして盤を挟んで俺と魚田君。パソコンの前には川崎さん。本番の時もだいたいこんな感じになると予想されているフォーメーションだ。
「持ち時間は四時間だったな。じゃあ、やろう」
本番で使うであろうものはだいたい揃えて、対局は始まった。
目の前に人間がいて、盤駒がある。いつもと変わらない気持ちで、対局することができた。ただ、違和感がないわけではない。ファミリアは、俺に対して一切敵対心を見せていない。綺麗な手つきで、駒を動かしていく。俺の感情の一部が、迷子になる。駒が、別世界からやってくるような錯覚を感じる。
当日は、ずっと中継される。そればかりは今日と環境が違う……と思ったら、三脚が建てられ、デジカメがこちらを向いていた。川崎さんは、妙なところでとても張り切るということを知った。
戦型は相矢倉。よくある形なので、まだ相手がソフトだからどうこうということはない。と、ドアホンが鳴り、川崎さんが席を立つ。入ってきたのは三東先生だった。聞いていなかったので、しばらく視線が固まってしまった。
「えー……なんだっけ、ああそうそう。立会人の三東です。十二時になりましたので昼食休憩に入ります」
もうこの人たちは、このイベントを楽しんでいるに違いない。少なくとも歴史に残る心配は、今のところない人たちだ。タイトル戦に出るわけではないが、勝率のいい若手。われながら先陣を切るにはふさわしい人間だと思う。奨励会員、女流棋士、タイトル挑戦した若手、そして弱いプロ。みんな、今回は安心して外側から見ていられるのだ。
さらにドアホンが鳴って、出前が届いた。
「鰻だぞ。別のが良かったか?」
「本番では寿司も食う」
そういえば朝、2千円徴収されていたのだった。本番ではスポンサー持ちと聞いたので、がっつりと食べてやる、となかばヤケクソ気味に思った。
ちなみに、鰻は美味しかった。
午後一時、対局再開。この時間帯が一番危ないのではないか、と思っている。パソコンと違って人間には眠気が訪れるし、流れが一度中断されていることにより迷いが生じたり、逆に決断がよくなりすぎたりする。
慎重に。そして、時間を使いすぎないように。できる限り普通に進めていくことを心掛けた。しかし中盤、掟糘の方が意外な一手を放ってきた。昔一時期、局地的に流行った手だ。定家さんが先手で勝って以来現れなくなったけれど、結論が出たとまでは言えない。ただ、後手としては具体的な主張がなく、選びにくい手とされている。
こんなにはっきりと覚えているのは、研究会で出てきたからだ。せっきーは知らずに指したらしかったが、その時は面白い手だと思った。それから過去の棋譜を検索したりして、皆でああでもないこうでもないと言ったのを覚えている。ただ俺は、「本番では出てこないよねー」とも言った。
ソフトがどこまでの情報を知っていて、この手を選んだのかはわからない。定跡というものを知らなくて、この局面で考えた結果このでいいと判断しているとすれば、とても興味深いことである。
あの時の記憶をたどる。先手が悪くなる道理はない、とはいえ難解、だった気がする。
数手は、研究した時に出てきた手順をなぞっていた。しかし掟糘は、突然過激に攻めてきた。たしかに後手玉には詰めろはかからなさそうだが、だからと言ってここで受けないというのは流れ的におかしい。ソフトには流れなどという感覚はないのだろうけど。
「辻村六段、持ち時間を使い切りました。これより一手六十秒未満でお願いします」
突然の、皆川さんの声。もうそんなに時間が経っていたとは。
感覚的には、こちらがいい。けれども答えを見つけられるかは自信がなかった。詰む詰まないにしてしまっては、駄目なのだ。耳の後ろを、冷たい感覚が走り抜ける。
どこかで覚悟していた。60秒は、とても短い。今日に限っては、相対的な問題だ。
後手からの攻めが厳しくなってくる。掟糘は、焦らない。
ソフトは、強いのだ。
「負けました」
頭を下げた。ファミリアが申し訳なさそうな顔をしている。
「辻村、いけるんじゃないか」
ただ一人、川崎さんだけが頷いていた。
「え」
「今の終盤、時間があれば先手がいい。研究しよう」
これが強さなのだろうか。一日で二回負けた気分だったけれど、今以上負けないためにはここで逃げ出すわけにはいかない。
「はい。たしかに、手応えはありました」
「あの……休憩しよう」
そう言ったのは木田さんだった。彼女が言えば、川崎さんも従うとしたものである。皆川さんもファミリアも、ほっとした様子だった。
「まあ、それもそうだな」
窓の外は、すでに暗くなっている。本当に、人間の時間はすぐに経過するものである。
【解説】
・電将戦
もちろん元ネタは「電王戦」です。私はこの棋戦において人間が勝った方の棋譜に興味があり、作品最後の戦いとしてこのエピソードを選びました。
・掟糘
これは「習甦」という将棋ソフトがモデルになっています。習甦の中には「羽生」が隠れています。この作品では定家さんが第一人者なので、ソフトの名前の中に入れてみました。
・盤の前の魚田君
初めての団体戦では、ソフトの手を奨励会員が指しました。その次からは、『電王手くん』という、ロボットアーム型の機械が登場します。どちらも対局者にとってはやりにくいでしょうが、見ている分には楽しめる要素でもありました。