二割ちょっと

【小説】二割ちょっと

 リバウンドしたボールが、ころころと転がってくる。吸い込まれるようにそれは、僕の手の中に納まった。

 チームメイトと目があった。明らかに「パスをよこせ」という顔だ。でも、彼にはマークがついている。僕はその場で両手を構え、ゆっくりとシュートを放った。

 ボールはきれいな弧を描いてボードに当たり、そしてゴールの中に吸い込まれていった。

 敵も味方も、呆然としていた。ただ僕だけが、このゴールを当然だと思っているようだった。

 僕はバスケットボールがうまいのに、誰も気づいていないのだ。


 小学三年生の時から眼鏡をかけている。痩せていて顔も地味で、そんな感じなのでクラスの中で特に目立たない存在になっていた。地味なグループの中で、ぼんやりと毎日を過ごしていた。

 そうすると、僕は何にもできないやつのように思われ始めた。確かに目立たないけれど、できないわけじゃない。それでもへらへらしているから、否定しないから、そういう人間だとますます思われるようになった。

 バスケットをやっていても、パスが回ってこない。悪意などないのだ。効率的でないと思われている。けれども僕は、シュートがうまい。

 このまま、誰にも何も気づかれないまま大人になってしまうのだろうか。両親ですら、僕のことはあまり知らない。

 そんな僕も、土曜日だけは張り切って家を出る。近所に将棋道場ができたのだ。実は将棋も得意な方で、親戚のおじちゃんにはすぐに負けなくなった。でも、誰も僕が強いことを知らないし、そもそも将棋ができることを知らないから、挑んでこない。

 朝、お茶の入った水筒を受け取って道場に出かける。母さんも、ペットボトルから水筒に入れ替えることだけはしてくれるのだ。

 道場に着くと、受付のおじさんがにやっと笑って「300円」と言ってくる。子供は三百円で、一日指し放題だった。ほとんどが年上のおじさんやおじいさんばかりだったけれど、同級生たちと遊ぶよりよっぽど楽しかった。

 でも。悔しい時も多々ある。強い人には全くかなわないし、差が縮まっている気がしないし、なんか切なくなった。

 そんな日は、少し遠回りして帰る。家に帰ると全てがリセットされてしまう気がするから。気持ちの整理がつくまで歩く。

 でも、時には失敗もする。考え事をしている間に、知らない場所にきてしまうのだ。今日も気が付くと、見たことのないマンションの前にきていた。

 電信柱に書いてある地名は、見たことがあった。隣町まで来てしまったのだ。

「あっちかな……」

 素直に来た道を帰ればいいのだけれど、どうにかして近道をしようとしてさらに迷ってしまう。小さな公園は、それ以上進めない行き止まりになっていた。

 ブランコと、滑り台。どこにでもあるような公園だった。そして滑り台のてっぺんに、女の子が座っていた。ただぼーっとしているように見える。

「あの」

 僕が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。白地に青い襟の制服、あれは私立校の制服だ。

「なに」

「道に迷っちゃって。駅に出るにはどうしたらいいかな」

「駅に行くんだ。私も行こうかな」

彼女は滑り台をするっとおりて、僕の前に立った。

「遠いよ」

「私も駅から帰るから」

「え」

「さぼり」

 今日は土曜日なのに、と思ったけれど、私立は授業があるかもしれないし、部活かもしれない。

「こっち」

「あ、うん」

 彼女はすたすたと歩き始めたので、そのあとをついていく。

「名前は? 僕は三東幸典」

「さんとう? めずらしいのね。私は工藤朱里」

 朱里はおしゃべりだった。ここから二駅のところに住んでいること、学校は嫌いだということ、妹の方が可愛いので親が不公平だということなど、いろいろと聞かせてくれた。僕の方は、将棋をしている帰りだということぐらいしか伝えられなかった。

「電車に乗るんじゃないんだ」

「うん。この近く」

「そっか。じゃあ、またね」

「うん。また」

 手を振っているときは気が付かなかったけれど、彼女が見えなくなってから気づいた。

 僕らはどうやって再会するのだろうか。


 再会は、中学二年生の時だった。

すっかり道場で敵のいなくなっていた僕は、将来のことを考え始めていた。将棋なら、一番になれるんじゃないか、と。

「いやあ、三東君強いなあ。おじさんに勝てるようになったもんなあ」

 道場でよく当たるおじさん、金本さんが僕の背中をたたく。自称六段だけど、多分二段ぐらいだ。

「プロなれるよ、プロなったらうちの娘にも将棋教えてやって」

 何とも遠い未来の話である。だけど、プロになりたい気持ちは芽生えていた。

 おじさんはハンチングを指でくるくる回しながら、次の対局に向かっていった。

 僕は、道場を出る。残念ながら来週から期末テストなのだ。

 もちろん、テストのことは考えたくない。このままプロ棋士を目指して、高校に行かないのもありかもしれない。両親はなんと言うだろうか。師匠も探さなければならない。

 いろいろと考え事をしながら歩いていたら、また迷って、そして同じように迷っていた。

 目の前に、ブランコと滑り台が見える。そして、女の子も。

「久しぶり」

 工藤さんは、すぐに僕に気づいた。

「久しぶり。またさぼり?」

「ほとんどさぼり。楽しくないもん」

 制服はほぼ同じだから、一貫校なのだろう。

「三東君は、やっぱり道場?」

「うん」

「強いんだ」

「……うん」

「強そうな顔してるもんね」

「初めて言われた」

「メガネのせいかも」

 工藤さんは、少し影があって、それでもとってもきれいだった。普段女子と話すことも少ないぼくは、緊張しているのを隠しながら、しばらく話していた。

「将来プロになるんだ」

「うん、目指したいなって」

「私は東京行きたい」

「え」

「東京行ってね、ロフト付きのおしゃれな部屋に住むのが夢かなあ」

 女の子の夢は難しい。でも、夢を語る工藤さんの顔は悪くなかった。


 その次の再会は、高校だった。

 中学三年生の時、奨励会に入った。紹介された師匠は弟子のことにあまり興味がなく、「可能性は二割ちょっとかな」とだけ言った。

 プロになれる気満々だったので、単純にびっくりした。しかし実際に、多くの人が奨励会を去っていく。

 東京まで通うのはきついけれど、最初のうちはとても楽しかった。いろんな人と将棋を指す機会があるというのは単純にうれしかった。

 でも、そんな時間は長く続かない。全国各地から、強い子供たちが集まってきている。僕より強い小学生が何人もいる。くじけそうになった。

 両親は将棋のことには興味がなかったが、高校には行かなければならないとしつこく言ってきた。だから、入学した。何の目的もなく、ただ卒業するためだけに高校に来た。

 そこに、朱里もいたのだ。

「びっくりしたね」

「本当に」

 朱里は、エスカレーターを降りたのだ。まあなんとなく、全く理由が推測できないわけでもなかった。

「将棋はどう?」

「まあまあかな」

「いいペース?」

「よくはないよ」

「でも、可能性はあるんでしょ」

「二割ちょっとね」

「ふうん」

 工藤さんは前よりも少し明るくなっていた。きっと、エスカレーターは酔いやすかったのだろう。

「三東君と私が付き合う確率は何割?」

「え」

「何割?」

「五割……一分ぐらいかな」

「可能性大だね!」

 実際には、九割九分だと思ったし、その日から付き合い始めた。


 あの頃から何が変わっただろうか。バスケの試合でボールが回ってきたときのことをたまに思い出す。

 僕は、パスを貰えればと思っていた。けれどもそれは、みんなが素人の、小さな世界での話だった。

 将棋も同じだ。大きな世界では、僕は無力だ。

「幸典、できるよ」

 朱里はいつもそんなことを言う。誰かに励まされるのに慣れていないぼくは、戸惑ってしまう。

「でも、大変だよ」

「頑張れる」

 僕は高校でもやっぱり目立たなくて、その一方で朱里は案外目立つ存在だった。進学校出身の朱里はみんなより勉強ができたし、運動神経もよかったし、何よりかわいかった。少し無愛想なところもあったけれど、そういうところが好きな人もいる。

 なんで僕なんかとなんだろう。それは、みんなも僕も思っていた。でも、朱里はずっとこちらを向いていてくれた。

 それに似合うような人間になりたいと思った。きっと、一流にはなれない。でも、朱里の期待に応えられる自分でありたい。

 それでも。ふとした拍子に気が抜けてしまうのだった。連敗して帰ってきたあとなど、何日か将棋に関するものを遠ざけてしまうことがあった。年下のプロが誕生し、後輩で退会する奴も出てきて、不安は募るばかりだった。

「私、夢かなえるよ」

「え」

「東京に行って、幸典と一緒に住む」

 彼女は有言実行型だ。拒否しなかったし、もちろん卒業したらその通りにした。

 朱里は前向きな僕が好きだというから、どんな時も前を向こうと決めた。自分の中で、なんでプロ棋士になりたかったのかもよくわからなくなっていた。それでも、僕ががんばれば朱里の笑顔が増えるなら、今の理由はそれで十分だった。

 少年の日の僕は、何かできても、頑張ろうとしない人間だった。本当はできるのにとか思って、自分の世界の中で満足していた。

 プロにならなければいけない。今までの自分を超えていかないと。

「夢、かなっちゃった」

 ロフトに上った朱里は、満面の笑みで言った。

 二人で住むことになった部屋は、決して広いとは言えなかったけれど、彼女の望み通りロフトがついていた。僕を見下ろす彼女の顔は、本当に幸せそうだった。

 僕は笑顔を返しながらも、内心では黒い塊のようなものを抱えていた。僕はまだ何も仕事をしていなくて、将来どうなるのか全く分からない。朱里は今は刺激があって幸せかもしれないけど、そのうち僕に愛想を尽かしてしまうかもしれない。

「幸典は大丈夫だよ」

 彼女は何度もそう繰り返す。けれどもそのたびに「二割ちょっと」が、僕にのしかかってくるのだ。八割近くは、大丈夫じゃない。

 それでも。努力はきっと、少しだけ確率を上げてくれる。僕みたいな人間にもきっと、チャンスはあるはずなのだ。

 朱里がこちらを向いていない隙に、僕は漫画の入った段ボールのふたを閉め、ガムテープを巻いた。これは、プロになるまでは開けない箱だ。


「先生……あの、先生」

 肩をがくがくと揺らされる。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

「う、うん」

「あの、風邪ひくから……その、寝るなら布団で……」

 目を開けるとポニーテールがゆらゆらと揺れているのが見えた。ああ、そうだった。今この部屋にいるのは。

「こんな時間か。月子さんも寝ないと」

「はい。あ、でももう少し勉強します」

「ほどほどにね」

 長い夢を見ていたようだ。不安だった日々。

 明日から月子さんは三段リーグを戦う。女性として初めてだったが、僕としては自分の弟子として初めてでもある。

 月子さんがロフトに上がっていくのを見届けると、僕は本棚へと目を移した。表には将棋の本が並んでいるが、その奥には漫画本が並んでいる。僕はプロになって、あの箱を開けたのだ。

 もう一度あの箱を開けたら、もう少し頑張れるだろうか。あと、今でもバスケットでゴールはできるだろうか。

 幸いにも弟子の方は、もっともっと上を目指せる器だ。そして彼女は今、自分のために戦っている。

 再び僕はロフトを見上げて、そして、笑顔でいられる。月子さんも心から笑顔でいられる日が来れば。それが今の、僕の願いだった。


【あとがき】

 『駒.zone vol.9』に掲載した短編です。三東先生の若い頃など。こんな感じでちょくちょく皆の物語を書いていければ、と考えています。

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清水らくは
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