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【物語と哲学 5】『七つの人形の恋物語』
ほとんどの「物語」には、「意図」があります。作者が何かを伝えたいという意図、そして作者が問いを共有したいという意図。意図やテーマを把握し、自分なりに考えることは、「哲学的思考」の最初の一歩になると思います。
ここでは、物語を題材に、哲学的思考の練習をしてみたいと思います。作品を取り扱う以上、≪ネタばれ注意≫ということになります。
第5回は映画『七つの人形の恋物語』を取り上げます。
テーマ 「人格とは何か」
作品紹介 ポール・ギャリコ著。『スノーグース』などで有名なギャリコの異色作品。川に身投げしようとしていたムーシュを呼び止めたのは、「キャプテン・コック一座」の人形だった。そこで働くことになった彼女に人形たちは優しく接するが、座長のコックだけはひどくきつく当たる。しかし、彼こそが人形を操っているのだった。(本稿は王国社(1997)矢川澄子訳 を参照 )
多重人格としての人形
ムーシュ(蠅)は本名ではありません。マレル・ギュイゼックは二十二歳の女性で、挫折を味わいお金もなく、身投げをしようとしていました。芝居で身を立てようとしましたが、「パリで直面したことと言えば、念願の舞台に立つためには、自分は才能もなければ肉体的な条件にも欠ける、という事実だったのだ」(p.14)という状態だったのです。
そんな彼女に声をかけたのは人形でした。七人の個性豊かな人形たちは彼女を迎え入れ、彼女の支えとなります。ムーシュは「キャプテン・コック一座」の一員として生きていくことになります。
しかし、人形たちを操っていたはずの座長を見て、ムーシュは「心臓に冷たい手を乗せられたような重い」(p.52)になります。
ちょっとのま、ムーシュはこれが他の人であってくれたらとさえ思わずにはいられなかった。だれでもいい、座長ではなくてほかの、たとえば近所の縄張りの露店商人とか人夫とか、そこらのごろつきででもあってくれたら。(p.53)
コックはムーシュにきつく当たります。人形たちを操っていたとは思えない冷たさなのです。しかも彼は、人形たちをきちんと人格として認識しています。演じている間は記憶がないとかではなく、自分の外のものとして、人形たちのことを語るのです。
ムーシュは逃げ出したい気持ちになりながらも、人形たちと会えることを心の支えに一座に残ります。しかしその人形たちを操っているのは、コックなのです。
コックは見事に人形たちを操り、七つの人格を使い分けています。彼自身を含めて、八つの人格がコックの中には「あるように」見えます。本書の帯にも「多重人格を生きる」とあります。しかし読者は果たして、皆がそのように読むでしょうか。私はこの点、ずっと疑問でした。というのもタイトルにもあるように、これは「七つの人形の」物語として書かれている側面があります。もしコックが単に多重人格者だったならば、人形は必要だったでしょうか。人形のないときにも、七つの人格は存在したのでしょうか。
コックとしてのペルソナ
コックはおよそ幸福とは言えない人生を送ってきました。他者に優しくすることなどもなく過ごしてきたのです。彼自身がなぜムーシュを迎え入れようとしていたかわからず、人形が勝手にやったことだと思っていました。
ドイツ軍の捕虜時代に彼は人形を彫り、同囚相手に人形劇を始めました。人形は彼の意志とは別に動き、別の人格のように見えていました。彼自身そのことを不思議にも感じず、普通に受けて入れていたのです。そしておそらく、それを不思議だと指摘するものがいるほど、真剣に彼に付き合うものはいなかったのです。
だからこそ、ムーシュの次の言葉はコックにとってはとても厳しいものだったのではないでしょうか。
「ねえ、キャプテンさま――あなた、どうしてにんじんさんやデュクロ博士やレイナルド氏みたいに、親切に辛抱強くできないのかしらね。あの人たちだって、今日はあたしが何度も大へまをやったやったと思ったに違いないわ。でも、一度もそぶりにはあらわさなかったわ」(p.75)
ムーシュは、コックのこれまで触れられなかった部分に踏み込んでいきます。コックがそれに優しく返すはずもありません。コックが冷たければ冷たいほど、彼の操る人形たちがムーシュの心のよりどころになっていくのです。
しかしこの舞台の裏には常に、コック自身がいます。彼は演じている間も、はっきりと自らの人格を保ち続けています。舞台に上がらないだけで、ムーシュと人形たちのことを見ているのです。
コックの八つの人格の中で、彼自身の人格は常に生き続け、そして舞台に上がれません。彼は人形がしまわれた後、冷酷な人間としてムーシュの前に現れることしかできません。それこそが彼の本性だから……なのでしょうか?
実はここまでコックと書いてきましたが、それは彼の本名ではありません。彼の本名はミシェル・ペエロと言います。一座の座長コックとしての彼は、より冷たい人間になっているように描かれ、ミシェルとしての彼は戸惑いもあり苛立ちもある人間として描かれているように感じます。
コックとしての彼はいわば、役割分担として現れた彼のペルソナと言えるでしょう。これは前回「ミセス・ダウト」でも取り上げましたが、演じているうちにそれが本来の私に投影される、ということがあります。ミシェルとコックは役割が違うものの、ミシェルにとってコックは「ほとんど演じなくていい存在」です。しかし冷徹な座長という役割は、彼本来の冷徹さをより固定させている面があるでしょう。
それに対して、人形たちの温かみは彼自身に何の影響も与えていないように見えます。そしておそらく、ずっとそのような関係が続いていったとしても不思議はなかったでしょう。おそらく彼には、そのような才能があるのです。しかしこの物語には、そんな彼に予期せぬ要因が割り込んできたのです。
「演じない」強み
コックはムーシュの存在に心を乱されます。彼女の清らかさが、彼をいらだたせるのです。そして、彼女を自分のところまで引きずり落としたい、汚したいと考え、実行に移してしまいます。
そして、ムーシュが絶望を感じさせられた直後の朝でさえ、コックの操る人形たちは優しく、彼らがムーシュの心の支えとなるのです。読者の多くはこの辺りで、この倒錯した関係性に胸を締め付けられるのではないでしょうか。
彼女はその純真さゆえに、一座をうまく回し始めます。演技の才能がなく身を投げようとしていた彼女が、彼女自身の魅力で役割を全うし始めたのです。コックはそんな彼女にきつく当たり続けますが、自らの人形で回復させてしまいます。
コックによって演じられている人形たちが自由に振舞い、ムーシュが自然に対応するほど、劇の内容は充実していきます。いわば、「コックがコックから離れ」「ムーシュがムーシュでいるほど」仕事はうまくいくのです。
二人とも、幸福な人生を歩んできたわけではありません。そんな中でコックは自らの冷徹さの中に閉じこもり、極端な人格たちを人形として生み出しました。それに対してムーシュは、何があっても、どれだけひどい仕打ちを受けても、ムーシュらしい人間であり続けました。
二人は似ている部分もありながら、対比的な部分もあります。仕事という面ではばっちりかみ合っていますが、それ以外の面で憎しみ合うほどにうまくいっていません。
コックはひどい男です。読者も彼のことが嫌いになるのではないでしょうか。しかし彼自身の苦しみを痛感する人もいるはずです。自分でもよくわからず七つもの分身を生み出しながら、決して自分自身は慰めることはできない。七つの人形は、自らの外にいるままなのです。彼自身の生み出したものでは、彼を救えないのです。
もし、ムーシュも演じるのが上手い人間だったならば、表層的にコックを慰めることはできたかもしれません。人形たちとコックは違う。コックにはコックの良さがある。そうしてビジネスパートナーとして、一座はそこそこうまくいったかもしれません。
しかしムーシュはそんなことはせず、コックに対する感情を駆使たりはせず、自分のままでありつづけます。そうすることしかできなかったのですが、だからこそコックは「救われない自分自身」と向き合うしかなくなります。
ついに、ムーシュに好意を寄せる青年が現れます。彼女を救える存在が、現れてしまうのです。コックは追い詰められ、決断を迫られるのです。
ミシェルとしての人格
彼はそこにいた。彫像のように動かず、やつれはて、くぼんだ目をして、苦渋にみち、頑なに、しかも死ぬほどムーシュに恋いこがれながら。
赤毛の黒装束のその男は、目だけが生きのこっている死人のような顔のまま、右手を高くさしあげた姿だった。指はムッシュ・ニコラの人形の内側にすっぽりおさまっていたのだ。左手にはレイナルド氏の人形のむくろが、わなわなとふるえる指にくしゃくしゃににぎられていた。あたかも善と悪、悪と善の平衡を保った秤りのごとき姿だった。(pp.163-4)
求婚されたムーシュは、一座を離れることになります。人形たちは彼女を見送るためにあれこれ言い合うのですが、ついにその演技に終止符が打たれる時が来ます。ついに、「人形を操作する」ミシェル自身が隠し切れなくなったのです。自らの人形たちの生み出した全によって「堕落させられた」ミシェルは、演じることも、そしてムーシュを求めることもできなかったのです。
しかしムーシュは違いました。彼に手を差し伸べたのです。
「ミシェル……ミシェル。愛しているわ。たれだってどうだっていい、ただあなたを愛するだけよ。もうどうしていいかわからない。あなただったのよ、あなたを、あたしずっと思いつづけていたの」(pp.165-6)
ひどい仕打ちを受けた女性が、愛していたということで一件落着。そういう物語の構成にいやな思いをする人もいるでしょう。けれどもムーシュは、ここではっきりとその理由も言っているのです。思いつづけていたのはミシェルであると。彼女は人形たちの向こうに、ずっとちゃんとミシェルを見ていたのです。
多重人格というテーマ、楽しい人形たちのやり取り。そこから読者は、ミシェルから切り離された人格たちの物語を読み取りがちなのではないでしょうか。私もそうでした。しかしムーシュのこの一言によって、はっとさせられるのです。彼女自身はずっと、人形たちの優しさを、ミシェルのものとしてとらえていたのだと。もちろん彼自身の冷酷さ、彼の仕打ちには嫌気がさしていたでしょう。しかしそれは彼の一面であり、別の一面としての「人形たちの温かみ」にも、ずっと向き合ってきたのです。
ここで、タイトルの意味も分かってきます。「七つの人形の恋物語」(原題は"LOVE OF SEVEN DOLLS")と言いますが、人形たちは皆がムーシュに恋をしていた、という感じでもありません。しかし七つの人形の物語を作っている男、ミシェルとの間には愛があったのです。ムーシュは単に自分を慰めるものとしての「空想的な」人形たちではなく、ある男の内面が現れたものとしての「現実的な」物語として、自分だけに向けられた人形劇を受け取っていたのではないでしょうか。
「人格とは何か」というのは、難しい問題です。本人の自覚、切り離しがたさ、意識の延長……と、いろいろな側面があるでしょう。果たしてこの物語において、ミシェルは多重人格と言えるのか。人形たちの影響は、どこまであったのか。普段私たちが役割を演じることと、人形たちの演技とはどこが違うのか。様々な問いが、ずっと残り続ける作品です。ぜひ一度、読んでみてください。
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