花子章
その女の子の名前は、花子といいました。花のように綺麗な娘に育って欲しい、そんな願いが込められた名前です。彼女にはたくさんの兄達がいましたが、彼女が十になるときには、次郎兄と五郎兄しか残っていませんでした。次郎は十八になるというのに少しも嫁を探す気配を見せず、暇さえあれば釣りばかりをしていました。五郎は逞しい体を持っていましたが、少し考え事が苦手らしく、蛙や亀とばかり話をしていました。両親は息子達に愛想が尽きた様子でしたが、その分花子のことが可愛くて仕方がないのでした。
花子は本当に器量良しの、美しい娘に育ちました。まだ十だというのに、誰もが村一番の美人だと褒め称えました。また、花子はよく働き、頭もよく、気遣いもいい本当に立派な娘だったのです。両親は彼女が跡取ならどんなによかったかと、毎日のように思うのでした。 生活は貧しく、とても望まれる幸せとは程遠い暮らしでしたが、花子は幸福に囲まれて暮らしていたのです。花子はどんなことも前向きに捕らえられる子供でした。好奇心旺盛で、それでいて冷静沈着でした。もしあえて彼女の欠点をあげるとすれば、それは彼女があまりにも完璧である、ということなのです。
ある夏の日の午後。物語が始まろうとしていました。
豊作(とよさく)は年老いた馬でした。
豊作はもう畑仕事ができる体ではありませんでしたが、誰もこの老馬を殺そうとは言い出しませんでした。豊作はこの家で一番働いてきた……そう、次郎や五郎は勿論、死んだ太郎よりも……そのことは誰もが分かっていたからです。
午後になると次郎は釣りに出かけてしまいます。五郎は暇なのですが、仕事の当てにはなりません。豊作の世話をするのは花子の役目です。花子は豊作の体を優しく拭いてあげます。豊作は申し訳なさそうに小さな息を吐き出して応えます。彼にはもう、いななく力も残っていなかったのです。
花子の手は、その可憐さに似合わず傷だらけでした。野良仕事にも、水仕事にも、そして機織にもその手は酷使されていたのです。しかし彼女はそのことを気にしませんでした。花子は自分を特別だとは思っていませんでした。母親にも父親にも似ていないこと、家族の中で自分だけが懸命なこと、すらりと伸びた脚、しゃんとした背中、どれもか彼女だけのものだと、花子自身は全く気付きもしなかったのです。
いつもどおりの午後でした。一輪の花が、厩(うまや)に投げ込まれるまでは。それは、ほんの些細なことでした。でもそれは、本当に不思議なことでした。山茶花(さざんか)のつぼみが、豊作の鼻先を掠めて飛んでいきました。この時期にはありえない色が、放物線を描いていきました。
花子はそれをただ眺めるしか出来ませんでした。しばらくしてから、辺りを見回しました。誰もおらず、しかし、山茶花の蕾はいつまでもそこにありました。花子はそれを拾い上げました。確かにそれは、柔らかい、花の蕾でした。
花子は少し身震いしました。しかしそれ以上は、その不思議に頭を傾けようとはしませんでした。思えば寄ってくる、それが言い伝えだったからです。
ただ、豊作は知っていました。いつもより尻尾を多く振って、来訪者を歓迎していました。
「ホーホーホー」
花子の耳には聞こえませんでしたが、確かにそのとき、ロビンは厩の角(すみ)で笑っていたのです。
次郎は頭の悪い子ではありませんでした。ただ、ずぼらだったのです。
けれども、そのことを理解しているのは花子だけでした。両親はいつも出来の悪い長男に頭を悩ませ、弟は全く兄に関心がないのでした。
今日も次郎はふてくされて、家の裏で釣り針を作っていました。古くなった釘を曲げて、そして削ります。孤独な作業の時間が、彼の唯一の友でした。そして彼の唯一の友は、あまりにも寡黙でした。
空はどんよりと暗くくぐもり、生暖かい風が次郎の首許を舐めるように触れて過ぎました。水飴のような汗が額から、背中から、わきから、這い出してきました。それでも次郎は汗を決して拭おうとせず、虚ろな瞳で釣り針に集中するばかりでした。
出来上がった針は、小さな木箱の中に放り込まれていきます。その箱の中には、今まで作った大事な作品たちが納められているのです。そう、そのはずだったのです。
いくつめかの針を投げ込んだときでした。次郎はどこかに、ちょっとした違和感を持ちました。次郎は木箱に目を向け、そしてしばらく、視線を動かせなくなりました。
箱の中は、空っぽだったのです。知らぬ間に落としてしまったのかとも思いましたが、辺りには何も落ちていません。
狐につままれたのでしょうか。ようやく両の瞳を自由に戻した次郎は、立ち上がって周囲を見回しましたが、誰かがこそこそ隠れている様子も見受けられません。次郎は怒りと恐れを同時に抱き、とりあえず、地団駄を踏みました。
そして、彼は一箇所、注意を向けることを忘れていたのです。屋根の上では、小さないたずらっ子が満足げに小躍りしていました。
「ホーホーホー」
ロビンの笑い声はやはり、次郎の耳には届きませんでした。
五郎は花子よりも二つ上でしたが、村の者もそんなことはとうの昔に忘れてしまっていたのです。幼い頃はいつも花子に手をひかれ、どこから見ても出来の悪い弟でした。体は大きいのですが、声は弱弱しく、動きはのろく、全くもって兄の威厳などは見られませんでした。いつの頃からでしょうか、五郎は両親や兄から無視されるようになり、自分から花子には近付かないようになり、小さな動物ばかりに話し掛けるようになりました。
蛙や亀は何も応えてくれません。彼はお気に入りの亀に八六(はちろく)と名前をつけていましたが、その名前を呼んでも亀は全く無反応です。大体初代八六は去年死んでしまって、今五郎が呼びかけているのは赤の他人なのです。
八六(と呼ばれている亀)は甲羅を干しながら、オテントウ様を見上げていました。別に、水面を睨む必要がなかっただけなのですが。五郎もそれにつられて空を眺めてみましたが、不定形な雲がゆっくりと流れていくことしか、彼の目には捕らえられませんでした。
「何があるかね?いつもと同じじゃないかね?」
五郎は問い掛けますが、八六は呆けているだけです。そしてそんな間抜けな二人を、ロビンはじっと見詰めていました。
日が落ちるまで、五郎はずっとそこにいました。八六が甲羅干しを終えて水面に潜っても、五郎は八六がいた場所から視線を動かそうとしませんでした。まるで、自分が何を見るためにそこにいたのか、忘れてしまったかのように。
気付かない人間をからかっても仕方がない。ロビンはそっと、その場を離れていきました。小さな口笛を、鳴らしながら。
花子はまだ、全てを忘れきることは出来ずにいました。思えば寄ってくる、それは分かっていたのですが、だとしたら寄ってきたらどうなるのか、少女の好奇心はもぞもぞと活動を始めたのでした。妖怪、物の怪、悪霊、なんと呼んでも奇怪で恐ろしい化け物のはずなのに、あの山茶花の蕾が示すものは、とても優しい異世界のような気がしてならなかったのです。
こんなことならば。こんなことならば、あの蕾を手に取っておくべきだった、花子は強く後悔しました。それは確かに馬鹿げた冒険で、わかっているのに狐につままれるだけかもしれません。それでも。それでもあの蕾を、この手に乗せるべきだった、花子は思ったのです。
四人の家族はぐっすりと眠っています。花子はそっと起き上がると、家を出、厩へと向かいました。
月明かりは暗く、厩の中に何があるのかなど、まるっきり分かりませんでした。かといって灯りをつけるのはもったいないことだと、懸命な花子は気を利かせました。そしてそれは、正しかったのです。
「僕は迷い子さ。僕は何故ここにいるのか知らないのさ。でも君に会えてよかったよ、豊作君」
とても幼い、けれども憂いに満ちた、少年の声が聞こえてきました。それは聴いたことのない地方の方言のようでもあり、鳥の鳴き声のようでもあり、とにかく不思議な感じだったのです。
「でもね、少し分かった気がするよ。父さんが言ってたこと。きっと、こういうことなんだ」
恍惚とした言葉の流れ。まるで貴族の詠む詩のようだ、とは貴族を知らない花子は連想できませんでしたが、とにかくその中にある神秘的で幻想的なものは十分に感じ取っていました。
「僕の母さんが……」
そのとき、花子は彼と目が合いました。そう、深すぎる暗闇は一切の情景を認識させはしない……しかしロビンの目は輝いていたし、何より二人は、この世にあってこの世にはない世界へ、すでに足を踏み入れていたのですから。説明できないことはすでに、説明しなくてもいい事へと変わっていたのです。二人のぶつかり合った視線は、ずれることなく暫くの経過を待ちました。花子に見える二つの黄色い瞬きは、彼女の中の優しい異世界の想像を、より一層強固なものへと変えていきました。どんな動物も持ち得ない、罪を含みようのない純粋な輝き。
「母さんに会いたいんだ」
ロビンはそんな言葉で静寂を破りました。その悲しみに覆いは被せてありませんでした。
「遠くから来たんだ。ここら辺だと思ったけど、違うみたいだからさ。遠くから来た母さんは……」
ロビンの言葉が続かないと分かったとき、静寂は決して静かではなく、虫の声や風の音が不定形にざわめいていることを、花子は何とか思い出しました。ここはまだ現実の世界で、目の前にいるのはきっとただの幼い迷子で、ただすごく綺麗な瞳を持っているだけで、たまたま山茶花の蕾を持っていたんだ、そう思い込もうとして、そのあまりのばかばかしさに花子はくすりと笑いました。
「お母さんは見つからなかったんだ?」
「……うん」
花子はロビンのほうに近寄ると、軽く会釈をしました。続いて、二つの黄色い光もふわりと揺れました。
「蕾を投げたのは君?」
「……うん」
幼い二人は、そのとき友達になったのでした。ただしロビンは、自分のことを名乗りませんでした。彼自身まだ、名前を手に入れたとは、思っていなかったのですから。
また会う約束を交わし、花子は布団の中に戻りました。触れても崩れない、山茶花のつぼみを握り締め、幸せな睡眠の中へと身を沈めていきました。
次の日。エルフェイムに足を踏み入れているというのに、花子は何も恐れていませんでした。それはただ、すでに昨夜から彼女はあちら側の世界に捉えられていたのだから、そんな簡単な言葉では説明できないことです。ロビンは何の罪の自覚もなしに、彼女と共に境界線を越えてしまったのです。それは本当に、純粋に、綺麗に、ただ無邪気さからのことなのです。彼が幼すぎたから、そして彼が嬉しすぎたから、人間にとってその一戦を越えることの重大さを忘れ、何時の間にか暖かく豊穣な自らの世界へと、新しい友人を誘ってしまったのです。
花子は生まれて初めて、子供らしくはしゃぎまわりました。そこには疲れた両親も、すねた兄もおらず、四季を無視した美しい多種の花々や、緑を吐き出す若々しい木々が満ち満ちていました。普通の山々とそうたいして変わりはありません、ただ……ただどこにも、純粋でないものがなかったのです。
花子はその中でも見劣りのしない、純粋な美しさを存分に振り撒きました。彼女はたった一人で、広大な異世界の入り口と対等の関係を築いたのです。
「ああ、きっと僕の母さんもそうだったんだよ」
ロビンは、花子に聞こえないように呟きました。そして、高らかに笑いました。「ホーホーホー!ホーホーホー!」
一体どれくらいの時間がたったのでしょうか、遊び疲れてしまったのに、太陽はまるで微動だにした気配がありませんでした。一体いつからそこにいるのか、何故こんなにも心地のよい場所にいるのか、花子にはもう思い出すことが出来ませんでした。そんなことはどうでもよかったのです。花子は今、わがままで奔放な、新しい美しさをも手に入れたのです。
けれどもロビンは、悲しそうな顔で彼女を見ていました。花子はその様子に気付き、首を傾げました。
「どうしたの?」
「君は帰らなきゃ駄目だよ」
「何で?」
「君は、僕のものじゃないもの。
まだ、間に合うよ。
真っ直ぐ進むんだ、ずっと、真っ直ぐ」
花子にはその言葉の意味が飲み込めませんでした。名も知らぬ人外の少年が、泣きそうな顔で遠くを指差しているのを見ながら、いつか見た水面に映る自分の顔を、花子は思い浮かべていました。ああ、確かにあれは誰かのものではなく、私のものだ。少女は、笑顔でロビンに答えました。
「うん、今日は帰るけど、また会えるよね?」
「約束するよ。また会える」
花子は手を振りながら、真っ直ぐに進んでいきました。着物の裾にはたくさんの花が詰められていましたが、走っているうちに全部、落としてしまいました。花子はなぜか、走り続けました。涙のような粒が、頬を伝っていきました。何故だか分からないけれども、とても大切なものを手に入れて、もてあましている、そんな想いが胸の中で渦巻いていました。
次第に空気は冷たくなっていき、まるで真冬のような寒さになってしまいました。田んぼはすっかり稲刈りが終わってしまったような有様で、いや実際終わってしまったとしか考えられませんでした。何もありません。夏の気配は、全くなくなっていたのです。
花子には何がなんだかわかりませんでしたが、真っ直ぐ真っ直ぐに進むうちに、家に帰ってくることが出来ました。
家の中には誰もいませんでした。閑散としていました。まるで一人きりで暮らしているかのような、静かなたたずまいの空間でした。
花子のものは、何もありませんでした。花子は、訳がわからず、ふらふらと家を出て行きました。
厩の中を覗こうとしましたが、そこはもう厩ではありませんでした。ただの物置になっていました。その中には花子に見覚えのあるものもありましたが、どれもひどく古ぼけていました。
「なあ、八六」
裏のほうから、しわがれた声が聞こえてきました。しかしそれは、どこか聞き覚えのある調子の、ゆったりとした声でした。
「俺は何で独りなんだろうなあ、八六。お前は冬になると姿消すし、兄貴もとっくに死んじまったし……。
そういや花子は死体も見つかんなかったなあ。どっかで生きとりゃせんもんかなあ。
なあ、八六。お前だけは来年も姿見せてくれよ。そうじゃなきゃ、俺、寂しくて寂しくて……」
畑にたたずむ丸い背中は、確かに見覚えのある兄のものでした。しかし頭は白髪交じりで、頬には皺が刻まれ、腰は大きく曲がっていました。
花子は、決して近付こうとはしませんでした。会うわけにはいきませんでした。
今来た道を、真っ直ぐ真っ直ぐに戻りました。どこまでもどこまでも駆けていきました。けれども、あの場所にはたどり着けませんでした。何時間たっても、あの場所は見えてきませんでした。
再び、花子は泣きました。綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして、泣きながら走り続けました。
右手で釣り針をもてあそびながら、ロビンは深い溜め息をつきました。
父がしたように、何故自分もしなかったのかと悔やみました。目の中に焼きつく少女の笑顔を、そっと胸の奥にしまいこもうとしました。けれども胸の入り口は、大きな痛みと共にそれを拒絶するばかりです。
ロビン・グッドフェローは今日も叫びます。
「ホーホーホー!ホーホーホー!」