七割表紙

【小説】七割未満 17

「辻村……」

 ひどい顔をしていた。悲しそうなことはもちろんだけれど、髪はぼさぼさ、目元にはあざができていた。

「けがはないの?」

「してるかも。でも、ここまでは歩いてこれた」

 突然呼びされた。住宅地の公園で、彼女は待っていた。

「勘違いしないでよ、彼氏じゃないから。今は付き合ってないはずの人」

「そう」

「大事なところだから」

「女の子を殴るやつは関係なくくずだよ」

 少しだけ微笑んだものの、すぐに険しい顔に戻った。そういえば中学生の時、よくこんな顔をしていた気もする。

「なんでこうなっちゃうんだろうねー」

「わかってるんじゃない?」

「え」

「考えれば、わかるかもよ」

「そうかな」

 会わなければ、殴られない。簡単なことだけれど、きっと簡単ではない。俺には恋愛のややこしいことはよくわからないけど、やっぱり、殴るような男に近付く必要なんて一つも思い浮かばない。

「みっちゃんはさ……ちょっと謎だった」

「え、なんのこと」

「きっと頭いいはずなのに、成績はたいしたことなくて、でもなんか頑張ってる感じがしてさ、今から思えば将棋だったんだけど」

「まあ、そうかな」

「うらやましいって言うか、うん……いいなって思った」

「そんなことないよ」

「いや、いいよ」

 月は薄かった。星はいくつか見えるけれど、名前とかは知らない。沖原さんは、ブランコに腰を掛けた。遠い街灯の光が、片方の頬を照らす。

「あのさぁ……」

「なに」

「みっちゃんは、やっぱりいろいろ勉強しなきゃいけないことあるわ」

「よくわかんない」

「いいよ。来てくれてすっごい嬉しいから」

 東京の夜は、思ったよりも暗いのだ。空が狭いからだろうか。

 俺もブランコに座った。何か見たことがある光景だと思っていたのだけれど、それは、カーテンを付ける前の俺の部屋だった。何かが怖くて、何かを得たくて、カーテンを付けなかった。

 沖原さんのことをゆっくり知っていこう。そう思った。


 マンションの玄関前に、人影が見えた。怪しい。だがそう思ったのも一瞬で、その背格好から、そのたたずまいから誰だかわかって腰を抜かしそうになった。定家五冠だ。

 定家さんは俺を見つけると、にやり、と笑った。怖い笑みだ。

「辻村君、遅いじゃないか」

「定家さん、なんでこんなところに……」

「もちろん君を待っていたんですよ」

「僕を?」

「見させてもらったよ。君たちの棋譜を」

「え、それって……」

「とりあえず、家に入れてくれると嬉しいんだけど」

「え、は、はい……」

 オートロックにナンバーを入力して、将棋界の宝を俺の住むマンションへと招き入れる。どうやってここを知ったのか気になるところだったが、定家さんが知りたいと言えば誰だって教えてしまうだろう。

「いいマンションですね。一人で住んでるんですか」

「はい」

「まだ高校生でしたよね」

「やめました」

「そうですか。それもまたいい。辻村君は学校に行くよりもいろいろな人と会う方が勉強になるタイプだと思いますよ。私はね、学校が楽しかった。当時将棋はあまり好きではなくてね。でもあなたは将棋が好きそうだし、行かなくてもいいでしょう。ちなみに昔川西さんという先輩がいたんだけど、学校に行くふりをして麻雀ばかりやっていたということで、先輩たちは武勇伝として語るんだけどそれで成績が上がったわけでもなく……」

 ちーん。

「この階です」

「ほう」

 定家さんは放っておくといつまでも喋り続けるので有名だった。誰かがギネスにも載るんじゃないかと言っていた。

「ここです。そこそこきれいにはしてありますのでどうぞ」

「まあ、君はそうでしょうねえ」

 とはいえ、五冠を迎え入れるにふさわしい部屋なわけがない。とりあえず座椅子を引っ張り出し、腰掛けてもらった。

「ふうん」

「あの、お茶を入れますから……」

「いいですよ、私はお茶は飲まないので。コーヒーも牛乳も飲みませんよ」

 そういえば定家さんは対局の時、外国のミネラルウォーターを大量に持参することで有名だった。そしてそんなものはわが家にあるはずもない。

「そんなに長居はしません。君にアドバイスを与えに来ただけですから」

「アドバイス?」

 定家さんは俺に座るようにと合図したので、対面して腰掛けることになった。対局もしたことがないのにこのような状況になるとは。

「バトル・サンクチュアリ、君たちはまだあの企画の恐ろしさをわかっていないようなのでね。団体戦というのは、自分が勝ってもチームが負けることがある。自分が負けてもチームが勝って喜んでいることがある。自分の力ではどうしようもないところで勝負が動いていくというのは、恐怖じゃないですか」

「それは……」

「君達はただ対局に没頭しているつもりかもしれませんが、世間は団体の結果にも注目する。このままいけば皆川さんは勝てないでしょう。それが原因で優勝できなかったら……彼女本人だけでない、あなたと川崎君も傷を負うことになる」

 言っていることは、まあ、そうなのかもしれない。ただ根本的に、なぜわざわざそんなことを言いに来たのかがわからない。

「それを伝えて……僕に、何を望んでいるんですか」

「つまらないじゃないですか、こんなところで若手がつまずいたら。君と川崎君は、いずれ私に挑戦できる器だ。でもここで余計な傷がつけば、それが五年遅れるかもしれない。少なくとも名人挑戦は、五年遅れるでしょうね」

「なんでそんなことが」

「いいかな、順位戦で二年に一回ずつ昇級する人がいますか? 多くの人は一気に駆け上がっていく。一度つまずくと何年も足踏みする。勝率六割を超えている若手が一度も昇級しないままベテランになっていく時代です。彼らは一流になれる実力があった。それなのにいろんなことがきっかけで取り残されてしまった。そういうのは、あんまり見たくないんですよ」

 目つきがあまりにも鋭かったので、俺はまるで射止められた獲物のように身動きが取れなくなった。

「いいですか、私は中学の時、全国大会に出れなかった。エリートとは縁遠かった。でも、その後は全てのチャンスをつかんだんです。君たちはエリートとして出発できたのに、多くのチャンスを逃して、一流になる途上で迷っているように見えます。私は同世代とやるのは飽きてきたんですが、待っても待っても誰もやってこない。だから特別に、アドバイスしに来たんですよ」

 そこまで話すと名人は立ち上がった。

「あとはあなた次第です。では……五年以内にタイトル戦で会えるのを待っていますよ」

 そのまま定家さんは帰ってしまった。残された俺は、しばらく金縛りにあったままだった。


【解説】

・定家五冠
 誰も書いていないトップを書こう、と思って作ったキャラです。将棋界のトップと言えばどうしても羽生さんのイメージが反映されるのですが、それだと人格者なので面白くない、と思っています(笑)

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清水らくは
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