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【物語と哲学 1】『ピアニシモ』「私の心」とは何か

 ほとんどの「物語」には、「意図」があります。作者が何かを伝えたいという意図、そして作者が問いを共有したいという意図。意図やテーマを把握し、自分なりに考えることは、「哲学的思考」の最初の一歩になると思います。

 ここでは、物語を題材に、哲学的思考の練習をしてみたいと思います。作品を取り扱う以上、≪ネタばれ注意≫ということになります。

 では、第1回は『ピアニシモ』という小説を取り上げてみましょう。以下を読んで気になったら、ぜひ手に取ってみてください。

テーマ
「私の心」とは何か

作品紹介
『ピアニシモ』1990年、辻仁成(今回は1992年発行の集英社文庫版を参照する)。第13回すばる文学賞。
 ヒカルは、主人公の透にしか見えない存在だった。転校を繰り返し友達を作らなくなった透は、ヒカルと伝言ダイヤルで知り合ったサキにだけ心を開いている。

無視される友人

 担任は僕の名前を書き終えると、ヒカルを無視するように、僕を皆に紹介しはじめた。転校が多いこと、氏家という名前が由緒ある名前であること、前の学校での優秀な成績など、ひととおり説明が終わると、僕の背中を軽くたたき、自己紹介をしなさい、とうながした。
 ヒカルは、僕から少し離れ、担任の後ろから顔をのぞかせ、両手を開いて、しょうがないだろ、うまくやんな、と肩をすぼめた。(p.14)

 ヒカルの存在は主人公である透にしか認識できません。そのため他者はそもそも「何も感じていない」のですが、透には皆がヒカルを「無視している」ように見えます。
 どうも、ヒカルは実在しなさそうだな、と読者は感じるのではないでしょうか。しかし、明らかに存在しているものでも、皆が興味を持たなかったらヒカルと同じような状況になるかもしれません。「見える」ためには「見られる」ことが必要となります。


共有される友人

 僕のSFのような話が終わると、サキはしばらく黙っていたが、相変わらず裏返りそうな声の語調をちょっとだけ高めて、受話器の向こうから言い放った。
「こんにちは、ヒカル。よろしくね」
 ヒカルが飛び上がったのは言うまでもない。(pp.55-6)

 透は、伝言ダイヤルで出会ったサキに、初めてヒカルのことを話します。透は、人と接することを望んでいないわけではありません。そして、ヒカルの存在を共有したいと願っています。電話では、「姿が見えない」というヒカルのハンデはなくなっているのです。

「どうかしてるわ。あたしを信じてたわけじゃないでしょうね。嘘なのよ。全部嘘。全部でたらめなんだってば。」
 サキの声が、僕の燃え盛る心の炎に油を注ぐ。(p.155)

 でも、サキは、自分を偽って演技をしていたのです。そして彼女は、透もヒカルという存在について「偽っている」と考えていました。透は逆上しますが、ヒカルの存在は彼以外にとっては確かに「偽り」です。

 私たちの常識で考えれば、ヒカルは存在せず、透の作り出した妄想です。けれども透にとっては、かけがえのない現実です。
 たとえ物体としては存在しなくても、ヒカルははっきりと自立して動く存在です。外から見れば透の一部ですが、透から見れば「他者」です。透は信頼できる他者を望み、自分の中にヒカルを生み出したと考えることができます。

 「私」には心があります。透という「私」にとって、他者として見えているヒカルは紛れもない現実です。しかし他者からすれば、ヒカルは透の心の一部、妄想された存在にすぎないのです。果たして、どちらかが正しい、と言えるのでしょうか。透の妄想だ、と考えるのも、他者の「心」に過ぎません。ヒカルの存在は、「透の妄想だという妄想」かもしれないのです。

 物語において、課題を抱えた少年は成長していかなければなりません。ですから、透とヒカルは関係性を変え、決着をつけることになります。しかし現実ではどうでしょうか。ヒカルを抱えたままの透、ヒカルを信じてもらえるままの透、そんな可能性もあるはずです。
 何かを信じなくなる、ということは、心からそうしたのではなく、他者との折り合いをつけるためかもしれません。「私の心」は、私という存在を抱え込んでいます。私に対して「責任」があるともいえます。そのためにヒカルのような存在を生み出したり、消したりしなければならないのかもしれません。

 誰の心にも自分しか信じていない「私のヒカル的存在」があるかもしれないし、誰もが「他人の中のヒカル的存在」を否定してしまうことがあるでしょう。私と他者は、信じるものが違うのです。そんな中で、どうすればどちらが真実だと判断すればいいのでしょうか。そして「私のため」を考えた時、常に真実を信じるべきなのでしょうか。


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清水らくは
大変感謝です!