【小説】七割未満 23
世間ではかなり大きなニュースになっているらしいけれど、俺にとってはそんなことは関係なかった。指せば指すほど、この戦いの難しさを実感することになる。
掟糘は、いつも同じ手を指してくるわけではない。ただ、矢倉のあの局面にすれば、必ずあの手を指してくるのだ。
本番、どうなるかはわからない。けれどもこの指定局面だけは、どうしても答えを出さなければならなかった。いつも皆が集まれるとは限らない。今俺の部屋には、皆川さんがいる。あとは、夕方からせっきーが来る予定だった。
「この局面が詰めろなら、相手は避けるんじゃない」
「でも、詰めろ逃れがないわけじゃないですし」
研究していても、煮詰まってしまうことがある。本番までにはソフトもグレードアップしてくるだろうし、必ずうちのものと同じ指し手を選ぶわけではない。だから、あくまで最善手を探さなければならない。そうすると、まだまだ見えていないものを探すことになる。
「あのさ、辻村」
「なんですか」
「いいの、毎日こんなので」
「え」
盤を挟んで向こう側、皆川さんはきょろきょろと部屋を見回している。
「この部屋には来ないの?」
「ああ……別れました」
「……そうなの」
この二年間。同世代の皆は将棋のことでいろいろとあったわけだけれど、俺には俺で、人生初のことがあった。
「皆川さんはどうなんですか。あの、囲碁の人」
「プロポーズされたよ」
「え」
皆川さんのウェーブした髪が、ふらリふらりと揺れている。
「今度の新人戦で優勝したら、結婚してくださいって。ちゃんと付き合ってもないのにね」
なんだかよくわからなくて、ずっと視線を外せなかった。身近にいた姉弟子のことを、実は何も知らなかったんじゃないかと思い始めた。
「それで、どう答えたんですか」
「興味ある?」
「ありますよ。すごい話だから」
「断った」
「なんで」
「好きな人じゃないから」
胸に、ずしりと重たいものがぶつけられるようだった。俺は、言われたのだ。「みっちゃんはさ、結局私のこと好きとかじゃなかったんだね」と。
嫌いではないし、一緒にいて楽しいし、でもそれだけじゃ続かないし……恋愛は将棋よりも難解なゲームだ。
「それで相手は納得したんですか」
「どうだろう。まあ、碁もしつこいらしいけど」
「ははは」
二人は誕生日が一緒で、沖縄で偶然会ったと聞いていた。そんなロマンチックな条件があっても、現実はすんなりとはいかないものなのだ。
「辻村はさ、電将戦、どんな気持ちで頑張るわけ」
「……そうですね、踏み台というか、自分をふるいにかけるというか……」
「ふるい?」
「この先、上を目指せるかどうかのふるいです」
理由はわからないけれど皆川さんが微笑んだので、少しほっとした。恋人とはうまくいかなくても、将棋の仲間とはずっとうまくいっている。多分、みんなそこそこ変人だからだ。
「辻村は、やっぱり強いよ」
「もっと強くなりたいんですよ」
「まったく、生意気だなあ」
そのとき、ふと見下ろした盤の上に、一筋の光が見えた。カーテンの隙間から、一直線に伸びている。頭の中に、閃くものがあった。その線に沿って、飛車をスライドさせた。攻めに使うものと決めていた飛車が、縦横の守りに利いている。攻防の手というわけではないし、攻められる前に動くのは違和感がある。ただ、悪手であるという感覚が全くない。
「どうでしょう」
「……すぐには、わからない」
「ちょっと、考えてみます」
決め手になるんじゃないか、そんな直感があった。
その会場は、まるで将棋とは無関係に見えた。華やかな電飾に大きなスクリーン。コメントが床から壁、天井へと流れていく。
今回の電将戦では、ソフトの実力ができる限り出されることが重視された。そのためには何はともあれ電力が必要ということで、会館の外での対局となったのである。
解説が行われる一階の会場とは違い、対局室がある三階は普通の空間だった。ただ、今回のために一区画が和室にされている。
中に入ってしまうと、いつもと何も変わりはなかった。たしかにカメラがあって、目の前には奨励会員が座っている。けれども、それはそんなに特別なことじゃない。
パソコンのスペックは練習と同じだが、ソフトのバージョンと使用電力は異なっている。それがどんな影響を与えるのかは今のところ分からない。
「スーツなんだな」
会長が顔をのぞかせた。実は、和服を勧められたのだ。
「僕も、これで最高のスペックです」
「ほほー」
いつも通り、というわけではない。今日のために新調したのだ。対局料の半分は飛ぶ金額だった。
一階では、皆川さんが聞き手をしている。この二か月間ほど、姉弟子にはとてもお世話になった。彼女だけでなく、みんな本当に良く協力してくれた。それは多分俺の人望とかそんなことではなくて、俺がまだ強くなれると信じてくれたからだ。自分の能力を十分に生かし切れていないことが、いろんな人に見透かされているんだと思う。
現役の棋士として最初に負けるわけにはいかない。そして、上を目指す人間として、こんなところで負けるわけにもいかない。
時間が来た。いつものように、一礼をする。
淡々と時間が過ぎていくのがわかる。システム的なことはわからないが、当たり前の手も数分経ってから応手がある。掟糘は、人間に近いリズムを持っている。
そして。矢倉に。
予感はあった。
基本的に、ソフトは序盤が少し苦手だ。詳しく記憶することはできるけれど、その意味を知ることはできない。だから、決まった道があるならばそちらを進みたいのではないかと考えている。お互いが了承さえすれば、最も互角であろう道を、共に進んでいくのだ。
気が付くと、お昼になっていた。
昼食は、ソバにおにぎりを頼んであった。色々と試したものの、食べ慣れないものは体に負担をかけてしまうようだった。
静かだった。多くの人が来ているにもかかわらず、勝負の場はいつもと変わりがなかった。ただ、相手の息遣いは聞こえてこない。
色々な人が、色々な思いで観ていることは知っている。人類とコンピューターの戦いがどうとかこうとか、そういうのは今の自分にはピンとこない。なぜならば俺たちはいつでも、自分だけを背負って戦っているからだ。世代も出身地域も門下も、だいたいが後付で言われるにすぎない。俺は俺で、敵は敵だ。
対局が再開されて、淡々と指し手は紡がれていく。そして当然のように、例の局面になった。もはやこれは、掟糘の個性だ。この手が好きなのだと思う。
異様に落ち着いていた。
研究通りに、まったくその通りに進んでいく。そして俺は、すっと飛車を動かした。記録係が、時計係が、そして目の前の奨励会員が息をのむ音が聞こえた。指してから、一分もかけずに着手したことに気付いた。戸惑いも焦りも、何もなかった。
これで、相手の手が難しいはずだった。一つ息を吐いて、相手の手を待った。
十分たっても、動きはない。二十分たっても、指されない。ソフトも読みにない手を指されると、少し心を休めて、気持ちを落ち着かせたりするのだろうか。
三十分が経とうかというときだった。右端に、すっと手が伸びてきた。
1三歩。
しばらく、その場所をじっと見つめていた。一分たりとも考えていない手だった。先手は一筋を詰めており、1四には歩がいる。こんなところに歩を進めてくるなんて、今まで見たことがない。そう、今まで見たことないことを考えられるのが、ソフトの強みなのだ。
意味を、考える。同歩成りには、同玉だろう。端から逃げ出せることで、可能性が広がる。そして、その可能性の全てを読むのは、ソフトの得意分野だ。
時間が欲しい。何日もの時間が欲しかった。しかし実際にはほとんど時間がない。その中で読まなければならない。読みを、捨てなければならない。
いい手とは思えなかった。この瞬間は、指す前よりも形が悪いのだ。例えば放置して後手が1四歩ならば、先手から1二歩のたたきなどが生じる。
考えはまとまらなかった。けれども、攻めていい時間だと思った。ここで決断しないと、差をつけられずに終盤に入ってしまう。幸いここまで研究通りだったおかげで、頭の燃料はまだそれほど使っていない。
見えた。それは、定家さんがよく駒を打つことから、「定家ゾーン」と呼ばれているスペース。俺は銀をつまみ、8三の地点に置いた。相手の駒を責めて、玉頭を開拓する。多分、点数でも負けることはない。
流れは確実にこちらのものになった。相手の玉には触れない方針で、一歩ずつ前進していく。領地を広げていくのだ。ソフトはこういう時、方針を見失いやすい。入玉に対する考え方が、まだ洗練されていないのだ。かと言って最初から入玉を狙うのはまずい。なぜならば、玉を攻めることに関してはもはやプロと遜色ないのだから、局面が進んでいないうちには玉を攻めるために玉の周囲も攻略してくる。城が崩れてきたあたりが、一番狙い目だと思っている。
掟糘は、もはやどうしていいかわからないといった様子だった。駒損を避けるため右往左往している。もし相入玉を目指すならば、あやもあっただろう。
思想だ。君に足りないのは、思想なのだ。
そしてそれは、自分にも当てはまる。強くなりたいと願うばかりで、何をどう表現したいかを考えてこなかった。努力や才能だけでは、勝負は決まらない。強い思いとか、こだわりとか、そういうものが導いてくれるものがある。
川崎さんにも、木田さんにも、そしてつっこちゃんにも思想がある。共に過ごしていく中で、それがわかってきた。あの三東先生ですら、最近は勝率が良くなってきている。確実に前より強くなっているのだ。
ソフトには、勝つべき理由がない。だから、自分より強い相手には勝てない。
入玉が確定した。それでも掟糘には相入玉の意志がない、というかそういう入力がされていないのか、ひたすら攻めを続けてくる。動けば動くほど、苦しくなっていくのだ。ついにはどうしようもなくなり、歩を垂らした。反撃には十分すぎるほどの駒を貰っている。
プロの対局では、これほどの差になることはまれだ。それでも、ここに至るまではギリギリの攻防があったのだ。対局前にも、二人は戦っていた。
最後、三手詰みになるまで対局は続いた。気持ちは、ほとんど動かなかった。
対局室に誰かが入ってきて、光がまっすぐ、盤を横切っていった。
【解説】
・スクリーン
電王戦の解説はニコファーレで行われます。巨大なスクリーンにコメントが流れる様子は、それまでの将棋のイメージとはかなり異なるものでした。
・和服
将棋の対局では、服装の規定はほぼありません。普段の対局ではスーツの人が多いですが、高校生以下だと制服が普通のようです。これがタイトル戦となるとほとんどが和服になるのですが、スーツで対局した人もいます。電将戦はタイトル戦ではないので、どのような服装にするか迷うところだと思います。
・定家ゾーン
元ネタは「羽生ゾーン」です。羽生さんがよく銀を討つ場所で、一見筋が悪いのですが、なぜか形勢がよくなってしまうのです。作品が掲載されていた雑誌、『駒.zone』ともかかっているので是非出したかった表現です。