七割表紙

【小説】七割未満 12

 最初、知らない人かと思った。よく見るとどこかで見たことがあるのだが、どこで見たのかがわからなかった。

「あ、今日はかぶらせてもらうので、よろしくお願いします」

 爽やかな声でそう言われて、ようやく分かった。対戦相手の黍原さんだった。端正な顔つきに長く伸ばされたちりちりの髪。非常に格好いいのだが、髪の方は借り物である。イベントなどではよくふざけてかぶっているのは知っていたが、まさかテレビ対局でも装着するとは思わなかった。

 スタジオ全体に微妙な空気が流れているのがわかる。まあそれはそうだろう。黍原さんの見た目自体は決して変ではないのだ。ただ、いつもと違うからなんか変なのであって、果たしてこれがオンエアされるとどんな感じになるのかまったく予想がつかない。

 とはいえ、対局が始まってしまえば全く気にならなかった。盤が目の前にあれば、俺はその世界に集中することができるようだ。黍原さんも格好以外はまったく普通のままだった。かぶっている人は世間にいくらでもいるのだし、そういう人だと思ってしまえば問題ない。

 ただ、いつ脱ぐのか……は少し気になっている。以前普通のテレビに出たとき、いきなり脱ぎ捨てて走り出すところを見たことがある。対局の礼をしたところで滑り落ちる、なんていうハプニングは起こらなかったが、投了や感想戦を始めるタイミングで脱ぐんじゃないかな、と予想している。

 戦型は横歩取り。非常に難解な変化に突入している。研究していた局面からは外れていて、どちらが勝ちなのかはわからない。ただなんとなくだけれど、俺の方が苦労が少ない感じ。短い将棋では、これは大事だ。黍原さんは難しい顔をして、何度か頭を揺らした。落ちないか心配だ。

 心が落ち着いてくる。厳しく頭を回転させなければならないけど、心地良くもある。正解が、俺を導いている感覚がある。

 ぴーんと、一本の筋が通った。これは負けない。ネクタイを正して、背筋を伸ばした。せっかくなので、キレイに映りたい。

「負けました」

 黍原さんが頭を下げた。それでも落ちなかった。

「お時間が十分ほどございますので……」

 淡々とした感想戦が始まった。結局黍原さんは被ったままだった。

 そして、感想戦が終わり、締めの挨拶をした後に解説の鳥越先生がにこにことした顔で言った。

「それにしても辻村君、珍しいネクタイだねえ。なかなかないセンスだよ」

 かつらで対局する事に比べれば、ネクタイなんて全く無意味に思えるのだが、どうなんだろうか。


 こけた。誰も見ていないようで助かった。

 本当に何にもないところだったのだが、突然足に変なものが絡みついたような気がしたのだ。いや、何もないというのは嘘かもしれない。今は、退学届けを出した帰りなのだ。

 高校には何の思い入れもない。高校生棋士というのは重要なポイントだ、と偉い人に言われたのだけれど、そんなことのために在籍し続けるのはダサい。だからしばらくは、高校生のふりをしていようと思う。結局のところ、制服を着ていればいいのだ。おしゃれに制服を着こなすというのもなかなか乙かもしれない。

 とはいえ、今俺の制服は砂が付いてしまっている。あとでクリーニングに出そう。

 肩の荷の方は下りた。みんなが行くから行く、ただそんな感じで高校に入っただけだった。でも自分は、みんなと違う道を歩き始めている。たまたま才能があって棋士になったわけではない。気付いたときには、将棋に人生をかける覚悟ができていた。だから、将棋以外のことはすべておまけで、それに足を引っ張られる必要はない。

 とはいえ。俺ってまだ若いよな、と思うことはある。先輩たちは俺の知らないことをいろいろ知っている。勝負においても、「そんなのが有効なんだ」ってことを仕掛けてくる。かつらなんてのはお遊びの内だろうが、扇子とか飲み物とか、時には空気清浄機までが勝負を左右する。ああいうものは、まだ俺には使いこなせない。

 そんなわけで、自分にも使いこなせそうなものを買いに来た。水筒である。暑い季節は冷たいものを飲みたくなるが、対局の度にペットボトルを買っていくのもなんかかっこよくない。そこらへんこだわっている人は少ないので、バーンと見栄えのいいものを用意して、自分に最も合ったドリンクを持ち込もうという計画だ。

 ショッピングモールに着くと、平日昼間ということもあって若者の姿はあまりない。すでに学校をさぼっているわけではないのだけれど、制服なので少し罪悪感がある。あと、砂がちゃんと払いきれているかも気になっている。

 スイーツやバッグや靴、入浴剤のお店などを横目にエスカレーターを上がっていく。目指すのは輸入雑貨の店だ。そこはおしゃれなだけでなく、使い勝手のいいものもたくさんあるので最近のお気に入りである。

「あれ、辻村?」

 突然声をかけられた。聞き覚えはないのだが、無視する理由もなかった。

「はい……えっと、誰?」

 振り返った俺の目に飛び込んできたのは、おおよそ知り合いとは思えない女の子だった。髪の毛はツンツンに立っていて、耳には大きなピアスが光っている。口紅はべったり、眉毛もしゃっきり。首にもじやらじゃらとしたものがあり、スカートはとっても短い。一応高校の制服のようだが、見覚えはなかった。

「ちょっとー、忘れたの? 中学校の時一緒だったのに」

「中学校? うー」

 もはや忘却の彼方だ。学校の記憶はとても薄い。

「ひどい。私よ私、沖原」

「おき……はら……」

 記憶の扉をいろいろと開けてみるが、なかなか見つからない。だいたい俺は将棋以外の記憶力はたいして良くないのである。

「本当に覚えてないの?」

「ごめん」

「そっかぁ。ま、あんま喋ったこともなかったか」

「あんま……ってことはあるのか」

「あるよー、ドボルザークの話したじゃん」

「ドボルザーク……?」

 記憶の扉が、合図をしている。ドボルザークの話題をしたと言えば、中二の頃だ。まだクラシックなんてたいして聴いていなかったのに、突然「辻村君、ドボルザーク好きそうだよね」と聞かれたことがある。その時は「えっと……聞かないこともないけど」と答えたような。

「……え、でもあれ……沖原さん?」

「どーゆーことよ」

 記憶の中の彼女は、三つ編みに眼鏡の、音楽を聴きながら読書ばかりしている女の子だった。目の前にいるのはまるで正反対の人だが。

「きれいになったね、ってこと」

「何よそれ。ま、あの頃は学校ではおとなしくしてたからね」

「そういえば学校は?」

「……辻村こそ」

「俺は今日退学した」

「え、うそ。なんで」

「いや、特にいる理由もなくなったから」

「ふうん」

 だんだんと記憶がよみがえってきて、クラスの沖原さんと目の前の沖原さんの共通点がわかってきた。左頬のえくぼ、少し大きめの口、良く動く左手。そういうところは、前と一緒だ。

「じゃあ、沖原は単純にサボりなんだ」

「そうね、まあ……そうね。辻村は買い物?」

「ちょっとね」

「なになに」

「いや、水筒を」

「ここで水筒? いっがーい」

「そう?」

「私も見る」

「え」

 沖原さんはニコニコと俺のことを見つめるばかりだった。振り切るのも面倒なので、俺は歩き出した。ぴったりと横についてくる沖原さん。

「暇なの?」

「比較的。まー、あれだよ、家も学校も嫌いってとこかな」

 友達は、と聞こうとしてやめた。自分だって聞かれたくないことだから。

「あ、これかわいーよねー」

 店の入り口に着くなり、沖原さんはマグカップにくぎ付けになっいる。白地に赤いラインが入っているだけのもので、どこがどうかわいいのかよくはわからないが、女の子はこういうのが好きなのだろう。

 俺は適当に頷いて、目的のものへと向かった。立ち並ぶ水筒。普通の小さなもの、大きなもの、飲み口が独特な形のものなど豊富な品ぞろえだ。

「あ、これいいじゃん」

「え、かえる……」

 いつの間にか横に来ていた沖原さんが手にしたのは、飲み口がかえるの形になった緑の水筒だ。こんなものが中継ブログに載った日には何を言われるかわからない。

「家で使うんでしょ?」

「家でも使いたくないけど、仕事で使うんだよ」

「仕事? 就職決まったの?」

「将棋を指すのが仕事」

「……ショウギヲサス?」

「将棋。知らない?」

「将棋は知ってる。仕事になるのは知らなかったし、辻村がそういうの得意って言うことも知らなかった」

 中学生の頃は目立たない上に休みがちで、周囲にプロを目指していることなどはほとんど伝えていなかった。だから、知られていないのは仕方がない。とはいえ将棋界のこと自体はもっと知られていてもいいと思うけど。

「得意なんだ」

「意外。色々と投げ出しそうなやつだと思ってた」

「それは合ってる」

 結局は赤いラインが綺麗な、比較的シンプルなものを買うことにした。保温性に優れているうえに、洗いやすいということだ。

「おもしろくなーい」

「おもしろがるものじゃない」

 会計を済ませると、沖原さんは携帯を俺に向かって突き出してきた。

「ん?」

「ん、じゃなくて。交換」

「なんで」

「なんでって……再会を祝して」

「はあ」

 もうなんかどうでもよくなって俺も携帯を取り出した。ごめんねどうせメールを送られてきてもまめには返さないタイプなんです。

 連絡先を交換して、アドレス帳を確認したら「035沖原花蘭」がしっかり登録されていた。

「からん?」

「そーよ。知らなかったの?」

「知らないよ」

「私は知ってたのになー、みっちゃん」

「誰もそんな呼び方してないよ」

「そう? じゃ充君、私は今から予定あるけど、また今度呼び出すから」

「はいはい」

「じゃ、またね〜」

 手を大きく振りながらエスカレーターを降りていく沖原さん。どう考えても俺の記憶の中の彼女とは違う。ただ、そんなことはどうでもいいことだ。今俺は、将棋に関係のない人と久々に話したな、と思っている。ひどく非日常的なことで、びっくりしている。自分のことを気にかけるような人間が、実在するんだ。

 誰だかわからない人たちが、通り過ぎていく。将棋を知らない人々が。


【解説】

・黍原さん
 テレビでかつらをかぶるなんて……と思う方もいるでしょうが、実話が元になっています。いや、かぶってるけど公表していない人は知りませんよ……。

・中継ブログ
 将棋中継のブログでは、対局者の細かい情報が充実しています。珍しいものを持ってきたら、そのことについてはまず書かれるでしょうし、写真が載ることも多いです。若手男性棋士が可愛いものを持ってきていたら、確実に話題になるでしょう。

・沖原花蘭
 将棋を知らない女性を出したくて、新しく登場させました。自分の中では一番のお気に入りキャラなのですが、連載時はびっくりするほど反響がありませんでした。今後も活躍しますから、みなさんは是非注目を!

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清水らくは
大変感謝です!