七割表紙

【小説】七割未満 16

 いよいよ一回戦。関東若手チームは、奨励会チームとの対戦である。

 負けるわけにはいかないのだが、楽な戦いとも言えない。三段といえばプロと遜色ない力を持っているからだ。

 大将戦は、川崎対磯田。磯田三段は、新人戦でプロに何勝もしている。俺も三段リーグで負けたことがある。ちなみに名前が「瑠宇徒」と珍しいことから、将棋ファンからの認知度も高いようだ。

 副将戦は、辻村対岩井。岩井三段は14歳。若い。公式戦ではまだ自分より若い人と対局していないので、貴重な体験になりそうだ。

 女性枠は、皆川対金本。再戦である。前回はネット対局だったので、対面しての勝負は初めてということになる。

 ベテランチーム対関西若手チームの対局は別室ということになり、対局室には三つの盤が並べられた。いつもと大して変わらないのだけれど、これから団体戦をするんだ、という気分が高まってきた。

 のだが。

「大丈夫かなあ」

 川崎さんが心配そうに扉の方を見る。無言で控室を出て行った皆川さんは、すでに二十分ほど戻ってきていない。そういえば顔色があまり良くなかったし、挨拶の声も小さかった。体調が悪いのだろうか。

 奨励会員たちはすでに全員対局室に入っているようだ。雑誌に棋譜が載るということ自体が初めてということで、三段二人は相当気合が入っているようだ。つっこちゃんはいつも通りちょっとおどおどしていたけれど。

「辻村!」

 突如戻ってきた皆川さんは、なぜか俺の名を叫んだ。

「な、なに」

「あ、あのね、気にしてないし、気にしなくていいから!」

「え?」

「それだけ。さ、頑張ろ」

 一人で勝手に納得して、何やら頷いているいる皆川さん。川崎さんもぽかんとしている。

 とはいえ気にしている余裕もない。時間が近付いてきたので、三人で対局室へと向かう。

 部屋に入ると、対局相手、記録係、そして記者の上石さんがすでに準備万端で待ち構えていた。それぞれ一礼をして、上座に着く。

 団体戦は大将戦だけ振り駒を行う。川崎さんの歩がつまみあげられて、シャカシャカと混ぜられる。歩が二枚。俺は後手、皆川さんは先手だ。

 岩井三段はブレザー姿、中学校の制服だった。若さをアピールされているかのようだ。

「それでは、始めてください」

 よろしくお願いします、と皆が頭を下げる。岩井君は少し息を吸って、ゆっくりと吐きながら初手を指した。川崎さんのところを見ると既に四手進んでいた。皆川さんは目をつぶったまままだ駒に手を触れていなかった。

 俺のところは角換わりへ進んでいった。後手番の千日手狙い待機戦法で行く予定だったのだが、岩井君はすぐに気合よく仕掛けてくる。そうだった、彼は定跡を気にしないんだった。とらわれない、のとは少し違う。あんまり定跡を研究していないっぽいのだ。それでも若さは彼に抜群のひらめきを与える。無理っぽい仕掛けも、こちらが受け間違えれば破壊力のある攻めになる。

 ただ、とても落ち着いていた。強い人とだけでなく、級位者と研究会をしていたことが役立っている。大振りを避けるすべを学んだのだ。

 川崎さんのところは相振り飛車。普段指さない戦法だから、何か思うところがあってのことだろう。勝つのは当たり前、勝ち方が問題、ということかもしれない。

 皆川さんはゴキゲン中飛車、つっこちゃんは玉頭位取りで対抗していた。昔よく指されていた形だけど、今はめっきり見なくなった。相手に捌かれたら終わりの危険な指し方なのだ。でも、彼女らしいともいえる。つっこちゃんに最新形は似合わない。

 岩井君はどんどん攻めてくるけれど、どんどん苦しくなっていった。それは、かつての俺の姿でもあった。同年代では誰も受け止められない重いパンチも、プロにとっては普通のジャブなのだ。

 決め手は自陣飛車だった。何もさせない。

「……負けました……」

 一番早く終わった。内容自体は危なげなかったけれど、勝てるまではやはり緊張した。

「負けました」

 連鎖反応のように、磯田三段も頭を下げた。悪い局面をずっと粘っていたようだが、岩井君の投了に気持ちが切れたのかもしれない。

 チームの勝利は決まった。残るは女性枠。局面は、少し皆川さんがよさそうだった。馬を作られているものの、飛車交換に持ち込んで側面から攻めていけそうだ。玉頭戦に持ち込むのが居飛車側の狙いだが、飛車を渡した状態では反動もきつい。これは皆川さんやったか……と思ったのだが……

 つっこちゃんの目は、じっと自陣の右側をとらえていた。いったいそこに何があるというのか、俺にはよくわからなかった。そして細い腕が左側に伸びて、馬をつまんだ。右下へと引っ張られてくる馬。

 ▲3九馬。

 十秒ほど、凝視してしまった。一秒も考えなかった。今からまさに玉頭を攻めようとしていた馬。自玉の守りにも利いていた馬。それを、単騎遠い場所へと引っ込ませたのである。

 皆川さんも目を丸くしていた。予想していなかったのは明らかだ。

 そして、じっくりと考えてみると好手かもしれなかった。相手に飛車を打ちこませないようにし、自分はゆっくりと攻めていけばいい、そういう考え方なのだろう。いやでも、最善手だとは思えない。

 皆川さんも必死で手を作ろうとするけれど、相手に歩を渡すのは危険でもあった。龍は作れたものの駒を取れない。そしてついにつっこちゃんに攻めの番が回ってきた。攻め方もセンスがいいし、3九馬は遠くまで利き相手の逃げ道を塞いでもいた。

 全員が見守っていた。空気が、盤に吸い込まれていくようだった。

 皆川さんも頑張った。だから、美しく終局していった。

「負けました」

 下げた頭を、なかなか戻せないようだった。

 実力差があるのだ。そうとしか言いようがなかった。

 結果は2勝1敗、勝ち点2。優勝を目指すには苦しい出だしなのかもしれない。

 ただ、そんなことよりも。勝負の世界は厳しい、ということを実感していた。多分もう、皆川さんはつっこちゃんに勝てない。

 残酷な企画だ。けれどもこれを乗り越えたとき、皆川さんは何かを手に入れているかもしれない。

 ちなみに隣は2-1でベテランチームの勝ちだったらしい。若竹四段が古溝八段に一発入れ、残り二つはベテランが力を見せた、ということのようだ。やはり女流四冠の壁は厚かった。

 次戦は、関西若手チームとの対戦。絶対に負けたくない相手だ。そして皆川さんの真価が問われる対局になるだろう。


【解説】

・磯田瑠宇徒
 顔は知らないけど名前は気になる、という奨励会員とかたまにいます。そんなキャラクターを意識してみました。

・定跡
 将棋において、ある程度決まった一般的な指し手が「定跡」です。定跡を覚えることによってある程度序盤を乗り切ることができますが、プロの対局では定跡自体を疑うことも重要になります。ちなみに囲碁は「定石」です。

・自陣飛車
 飛車は強い攻め駒なので、相手陣に打つことが多いです。ただ、守備力も高いので自陣に守りの駒として打つことがあります。相手が読みにくいこともあり、流れを引き寄せる水戸が多い気がします。

・▲3九馬
 自玉からも遠いところに馬を引く、という設定の手ですが、実は私、よく指すんです。自陣飛車も含め、あまり人の読まない守りの手を指すので周りの人から不思議がられることが多いです。

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清水らくは
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