魅力的な人間が、魅力的な落語家になる。
以前noteに書いた『モテる落語家の条件・売れる落語家の条件』という記事に書ききれなかったものを今回のnoteに記します。
男女問わずに“魅力的な人”というのは一定数いて、そういう人は意識的か無意識的か人の心を掴むのがうまい。
言わずもがな、大勢からの注目や愛情が欲しいのならば“魅力的な人間”になれば良いのである。
わたしなりに『魅力的な人間とはこういう人だ』と定義付けした“魅力的な人間の条件”というものがある。
ただ、これはわたしの価値観からくる偏見なので、一個人の目線から見た景色だけを切り取ってつらつらと書き連ねているのだと割り切って読み進めていただけるとありがたい。
≪魅力的な人間の条件≫
人に『笑顔』を与えることができる人間
人に『癒し』を与えることができる人間
人に『感動』を与えることができる人間
20代のときに、
『はて。“魅力的な人間”とはいかに?』
と思ったことがあり、自分なりに考えて、たどり着いたのがこれである。
上記の3点に共通するのは、まず『相手ありき』ということ。
そして、『自分から発する』ということ。
やはり、魅力的な人間というのは、常に相手のことを考えて自らアクションすることができる人間なのである。
ちょっと想像してみて欲しい。
あなたのまわりの“魅力的な人”は、これらの点を押さえられているのではないだろうか。
そして、あなたのまわりの『モテる男女』を思い出して見ても、この3つが叶っている人が割と多いと感じるのではないだろうか。
そんな人はきっと、仕事も勉強もできるタイプの人間なのだ。そして、多くの人に慕われて愛されているはず。
売れてる噺家さん・人気の噺家さんは、こんなことはきっと、仕事における当然の使命として心得ているんだろうなぁと感じる。
だってわたし、『笑顔』も『癒し』も『感動』も、きちんと寄席でいただけるから。
わたしは噺家さんの『技術』以上の、そういう部分に木戸銭や心付けを払っているつもりでいる。
噺家さんの中には、技術を磨くことに気をとられている人が多いように思うけども、恐らくお客は技術だけにペイしているわけではないと思う。
今、噺家は約700~900人いるといわれている。
仮に、片手の指で数えられる人数しか噺家が存在しないのであれば、腕があろうがなかろうが、稀少性によって彼らの価値はぐんとあがるだろう。
しかし、こう900人ともなると“腕がある”だけでは目立つことも難しくなってくる。
“上手い落語家”
なんていうのは、今、溢れるほどいるのだから、そこで差をつけることは難しいと思う。
ひと昔前は『他社(他者)との差別化』を謳うようなビジネス書の類いがやたらと多かったように感じたが、今は様々なものが飽和状態にあるので、その“差”の出し方のレパートリーにもネタがつき“差別化”自体に難儀する。
たとえば、今のアイドルをみても、“カッコイイだけ”“カワイイだけ”で売れている人はほとんどいないように思う。
(1000年に1度の天使である橋本環奈が劇中で変顔をすることで、差別化からのギャップ萌え)
お笑い芸人をみても、“おもしろいだけ”ではやはり売れないと思う。
(それなりにイケメンなEXITが博識なネタをやることで、差別化からのギャップ萌え)
もちろん、“上手いだけ”では噺家も売れない。
“上手いだけの落語家”はたくさんいる。
そんな中、わざわざあの人の落語を聴きにゆくのは、そこに+αの価値があるからだ。
では、その+αとは一体何なんだろうか、と。
その+αというのが、
『自分から発することのできる何か』
なんだと思う。
そして、その『発する何か』は、
その人にしか出せないオリジナルの “何か”であり、
さらにそこに
“ストーリーが見える”
というのが、最も客の心に灯をともして、ハートに揺さぶりをかけるのだと思う。
綺麗な噺とか
綺麗な踊りとか
綺麗な歌とか
よりも、もっとずっとそこに人間臭さ溢れる、その人だけの物語が垣間見れると、人の心をグッと掴めるのだと思う。
“落語の上手い・下手”って、結局は「あの落語家さんは好きで、この落語家はイマイチ好きじゃない」という客個人の好みなのだ。
より多くの人の“好き”を集めた噺家が、人気が出たり、売れたりするのだ。
完璧な本寸法の落語を展開して、お行儀よく高座を締めるよりも、「ごめん。てへぺろ。間違っちゃった☆」と言える『人間臭さ』や『愛嬌』があって、それを「しょうがないな、もう♪」と客に受け入れてもらえる存在の方が強いと思う。
その「ごめん。てへぺろ。間違っちゃった☆」にさえ、金を払いたいとお客に思わせたら、勝ちだと思う。
確かに、今売れているあの師匠も、この師匠も、高座に『人間味』や『てへぺろ感』があるなぁと思う。
さらに言えば、以前拝聴したオンライン落語会で、割とポーカーフェイスで腕のある二ツ目の噺家さんが、長いセリフをひと息で言えた場面があって、そこで「よしっ!」って小さくガッツポーズをしてたのが、可愛かったなぁと。
それが、田中みな実並みの計算上のあざとさ(田中みな実は“あざとい”以上に“賢い”のだけれど)であっても、普段クールなキャラからわずかに垣間見えた『てへぺろ感』って大事だなと思った。
そういう人が、魅力的な人間と言われて、魅力的な噺家になるのだと思うし、これからの益々の“AI化時代”の穴を埋めてゆけるのだと思う。
つまりは、商品として完璧な美しいパッケージを売るよりも、その無機質な美しいパッケージに“人間臭さ”という華を添えられたら勝ちということなんだろうな。
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