噺家は荒野を彷徨う野武士哉。
わたしが感じる落語の魅力 を前回のnoteにあげました。
その魅力のひとつ、“噺家さんが丸腰で挑んでいること”について。
ひとりの身軽さは、
孤独と引き換えに得た特権である。
しかしながら、
ひとりはひとりなのである。
落語という古典芸能は、高座と客席との“見えないコール&レスポンス”があってはじめて成立する。
そういった類の瞬間芸術である。
客席との一体感を抱きつつも、やはり高座の上で噺家はひとりである。
「“ひとり”で完結するから噺家になった」という落語家さんは少なくはない。春風亭昇太師匠が、かつてT Vや雑誌などのメディアでそうおっしゃっていたことがある。
他にも何人もの噺家さんから似たようなことを、ちらり、ほらり、うかがうことがある。
“着物” “座布団” “扇子” が最低限あれば、噺家さんは落語を演ることができる。
(「手ぬぐいは?」「めくりは?」「出囃子は?」「大師匠の高座の座布団脇に出る湯飲みは?」とか・・・そーゆうのはきかないで♪)
道具らしい道具も持たずに、 “身ひとつ”で成立してしまうものが落語である。
その“身ひとつ”で挑む姿が、たったひとり荒野で戦う野武士のようだなぁと思う。
ヒリヒリする。
自ら選んで“ひとり”での戦いを決めているのだろうけれど、ひとりで戦うにはあまりにも無防備すぎる装備に思う。
派手な舞台装置も、派手な照明も、派手な音響も、何もない。
何もない中で、誤魔化しの効かない中で、きちんとお客のハートを震わせて、場の空気を手中におさめて、戦に勝利する。
カッコいい。
ひとりは気軽だが、気楽ではない。
たったひとりで、そこに座って口を開くだけで、世界をガラリと変えなくてはならない。
オープンワールドなR P Gの世界では、戦士たちは皆武器を携えて、甲冑を身に纏っている。戦うたびに、能力に応じて武器もバージョンアップする。
きっと噺家さんたちは、“重ね続ける練習の数”と“客席の笑顔”とを、見えない武器という名の自信に変えて、次の高座、またその次の高座へと今日も挑んでいくのだろう。
そろそろフィナーレ!第3回心灯杯!
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