天領・水郷=日田。

画像1 人吉もそうでしたが、日本の原風景的なものがありそうな土地として心惹かれ、仕事の流れを利用してかつて訪ねた町が、次々と豪雨被害にあっています。写真は、日田です。ニュースでも登場していた三隈川の合流点、亀山公園の下にある「沈み橋」のあたりです。
画像2 上の写真をもう少し拡大すると見える「沈み橋」。水と共生してきた日本にはかつてこういう橋があちこちにあったはずで、以前訪れた時もそんなことに思いを馳せながら、日本の原風景を感じられる、日田という土地により感動しました。木製の橋板の部分が流されても、石造の低い橋脚が残り、水が引いたときにまた架けて使うという、水と共生してきた僕らの祖先の知恵がつまった橋。
画像3 写真の右下に見えているのが、その「沈み橋」の橋板です。水が引いて、また橋板がかかり、きっと人々が行き交う日が来るでしょう。
画像4 この写真は、旧代官所の裏にある城山から日田の町を眺めたところです。この時も、山に霧がかかり、小雨交じりでしたが、周りを山に囲まれた小盆地に広がる瓦屋根の日本家屋が美しい街でした。薫長という日本酒の酒蔵や、日本丸館という木造三階建の薬屋、若の屋という木造三階建の旅館などが真ん中あたりに見えます。
画像5 屋久杉を使った豪華な部屋もある旅館「若の屋」の3階からの眺めです。日田の豆田町は、若の屋と写真左端の日本丸館が一番高い建物で、日本家屋の瓦屋根が続くさまは、小京都の呼び名に相応しいと感じました。
画像6 築300年の歴史を誇る草野家住宅。(写真左側)
画像7 秀吉の九州征伐の時に、久留米の近く耳納山地にある発心城から敗れて逃れてきた草野一族が江戸期以降住んできたという。(草野家・写真右側の建物)
画像8 江戸期の豪商の一族で、門人3000人がいた咸宜園という私塾を開いた広瀬淡窓の家。
画像9 その歴史の重みを感じさせる土間とミセ。現大分県知事の広瀬さんも一族です。
画像10 江戸時代の日本家屋もありますが、明治・大正期の少し洒落た印象のある町家も多く残されています。
画像11 こうした明治・大正期の町家は、ディテールで、左官仕事でおもしろい彫刻が残されていたりする。例えば、上の写真で、右側の黒漆喰が美しい商家に近づいてみると…。
画像12 鳩や…
画像13 兎など、かわいらしい動物たちの姿が目に止まります。
画像14 おめでたい鶴や…。
画像15 本物?って思わせるような配置の鳩も。
画像16 見事な天女も。こうした細工を探しながら散歩するのも楽しいと思いませんか?
画像17 若の屋の近くにある、3階建の歯科医院。こうした明治以降の町家建築を見れるのも、日田・豆田町の楽しいところです。
画像18 味噌と醤油の原次郎左衛門商店。店構えからも伝わってくる、おいしい醤油と味噌でした。
画像19 広瀬淡窓の咸宜園。決して便利とは言えない高地の盆地である、ここ日田に全国津々浦々から3000人もの若者が広瀬を慕って集まったかと思うと、そうした知を蓄ええた日田という土地の豊かさに驚きます。司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の中で、日田では「水郷」を「すいきょう」と読むとあり、咸宜園の塾生たちが漢学を学び漢音で「水郷」を読んだからではないかと書かれていました。江戸時代、幕府の直轄地=天領として富を蓄え、淡窓のような知の巨人を生んだ町が、その時代の雰囲気を残しながら、ここに存在することを喜びたいと思います。

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