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笑えないぐらい悲惨な俺の人生その②

どうも。ラクダです。
前回は家族構成から始まって小学校入学まで書きましたが思ったより長文になってしまって申し訳なかったです。
今回は私の人生が狂い始めたところまで書けたらと思います。では。

小学校では保育園からの友達も結構いて毎日楽しかったと思います。
そしてとうとう初めて学童に行く日を迎えました。あんまり知らない人向けに説明すると学童っていうのは小学生用保育園みたいな感じです。学校から直行して宿題しておやつ食べて遊んでみたいな。
古い建物に入るとある子は宿題してて、ある子は囲碁やってて、またある子はカードゲームしてたりして衝撃的というかワクワクした感覚を覚えてます。

ここの学童は1年生〜3年生まで(なぜか私の代では例外で4年生まで)が通っていてキャンプとかバザーとかイベントもたくさんありました。
先生も厳しくて優しくて楽しくて最高の環境だったし素敵な時間でした。

その年の12月ごろにまた母親から謎の提案をされました。
母「空手と塾どっちがいい?」
私「????」
とりあえず習い事をさせたかったみたいです。
たしかその時たまたま空手の体験みたいなチラシがあったんだと思います。
とりあえず私は体験を経て空手に通うことになりました。
これがまあ辛くて辛くて。
殴るんですよ?蹴るんですよ?痛いし辛いしで泣きながら行ってました。
争い事がそもそも嫌いだったんですよね。
根が優しいので。優しいので。(大事なことなので二回)

ここから4年生辺りまでは書くことがないです。というかあんまり記憶に残ってないのでそれなりに楽しい日々だったんだと思います。
私は空手に通うのに母方の祖母に毎回送り迎えをしてもらってました。
その頃には母から「おじいちゃんのこと好き?」って聞かれるようになりました。
前回でも少し触れたように母は祖父からの小言に耐えかねていたんだと思います。
当時の私はそんなことも気が付かずにとりあえず母に合わせようと思って「んー、微妙かも」みたいな事を言ってしまいました。

ある日いつも通り空手が終わって迎えが来る場所に行くとそこには車に乗った母、何か話しかけてる父と祖母がいました。
なんか分からんけどやばい。当時の私はその光景を見て訳が分からなくてとにかく焦ってました。
とりあえず祖母の車に乗せられた私はしばらく父と祖母、母のやりとりを車から見てました。
父が車の前にいるのにアクセル踏んだりしてましたからね。母が。
なんでその時両親がそこにいたのかは今でも謎のままです。
その日は祖母の家に泊まることになりました。

そこから少しして祖母の家で両親から話があると言われ「離婚しようと思ってる」みたいな事を言われました。もう頭真っ白。
嫌で嫌で仕方なかったけど2人の顔見て諦めました。
「2人の人生だし俺が何言っても変わらないだろうから」みたいな事を言って離婚成立。
小4でこの発言は大人ですよね。まあ今考えると自分の子供にこんな事言わせんなって感じですけれども。

その後の記憶はあんまり無いです。
たしかしばらく祖母の家に泊まってそこから学校行ったり、父親の家にいたり。その間母親がどこにいて何してたのかは全く知りません。(今も)本当はお父さんと暮らしたかったけど知らないうちに母親との2人暮らしになってました。母親が言うには父親は俺と暮らすのが嫌だったらしいです。

◎この辺りは本当に記憶が曖昧で文章も支離滅裂になるかと思いますがご容赦ください。

ちなみに空手は母との2人暮らしが始まった後も道場を変えて続けていました。
その頃からちょっとおかしくて寂しさからなのか友達を勝手に家にあげたり、好きでもない女の子に告白したり、内緒で父親に会いに行ったりしていました。(バレた時めちゃくちゃ怒られた)
学校では周りに気付かれたく無くて休まずに行ってたしいつも通りに接していました。
小4の終わり頃学童を卒業することになったのですが、その時に学童の先生が抱きしめてくれたんですよね。「お前は優しい子だから優しすぎてとっても心配」って言ってくれて号泣した記憶があります。

今回はこの辺で終わります。
片親って辛いんですよね。でもその辛さが浮き出てくるのってもう少し成長してからだったりすると思います。私はそうでした。
もっと自分が良い子だったら回避できたのかなぁって今でも思います。離婚を考えてる方、これから結婚する方、本当にその離婚は必要ですか?自分のためだけじゃないですか?相手や子供や周りの人生にも影響するのでよく考えて相談してから行動してくださいね。

『次回予告』
笑えないぐらい悲惨な俺の人生その③
〜中学・高校での出来事〜

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