見放され 日記20220521
麻雀は配牌地獄中で、全然うまくいかな~い!まあ、この間までが上手くいきすぎていたんだろうな。
アンド、さすがに危なすぎる牌を切らずにおりる意識が若干できるようになって、少しだけ上達した気がする。気がするだけだけど……。防御面で、流局時に待ち牌が表示されて自分がちゃんと諦めて止めるターニングポイントになった牌だったりするとうれしいですね。上達~って感じがする。(もちろんまぐれでもあるんだけど……)
というわけで、ふと神に見放されている、ってワードが浮かんだんだけど、瞬間に「えらそーなこといってんなよ!」と自責しました。
神に頼むな己で切り開け。
これは本当になんとなくの観念的な話になるので、だめなのかもしれないけど私は「自分を無条件に助けてくれる大きいなにかの存在」にあまり期待していないのかもしれない。もちろん、一般的に日本人が行っている行事とかでお参りしているし、その時に「ケッ、こんなの意味ねーだろ!」って失礼な態度をとっているわけではないのだけれど、心の底で「気が向いたら助けてください、気が向かなければ別にいいです」っていう気持ちがある気がする。
なんとなく、アニミズム的な考え方で、神というか石には石の、物には物の精神が宿っていて、それを大切にしなくてはな、という気持ちはある。けど、それは見返りを求めてのものではなくて、自分以外の人間を尊重する気持ちで自然物を尊重している感じに近いかもしれない。
初めて会う人を踏まないように、おにぎりも踏みません。
っていうか、もし天に神がいたとして世界何十億人を平均的に見ていたとして、幸不幸を操れるとして、じゃあどうやって格差をつけているんだろうな、と思うともし仮にそういう精神体があってたとしても何かを操るという行為はできないんじゃないかな。
祈らないと声が届かない高次存在なんて、わがままな子供がカメレオン飼ってるようなもんなんだから願ったところで、という気持ち。
よんアザの天界感がとても好きで、神は人を救うのではなくてただ眺め、その世界の均衡を保つ存在なんですよね。
人間が人間に行う悪事はスルーして、均衡を崩す悪魔にだけは手を下そうとする。高次存在は観察するのみ。
よんアザでは、それを「おもしろがっている」神だったけれど、人間でいうと水槽の中を観察し、外敵だけを排除しつつその世界で起きている事象を観察していて、グッピー同士の闘争については「まあまあ、自然の摂理だよ」と思っているのに近いかもしれない。
それでも、もしできるなら私の好きな人間たちを幸せにしてやりたいなと思うし、神にはなれないけど同じ次元にいる人間としてできるだけのことはしたいと思っています。
これからもそう思えていますように。
おわり。
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