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病院の礼拝室で鶴太郎を継ぐ


大学病院で検査が終わり、診察まで時間があるらしく、一回の礼拝室へと向かう。受付で利用申請をしたところ今日は俺以外に利用者はいないらしい。

さも病院に礼拝室があるのは当然とばかりに書いていたが、なんなのかは知らない。ただ横開きのドアに「礼拝室」とだけ書いてある。

空港などでムスリム用のスペースがあることは知っているがこの礼拝室は説明を読む限り礼拝に限らず静かな環境での精神活動をしたいなら「どなたでもご利用いただけます」だそうだ。

ランニングで精神の均衡を保ってきたが、それが封じられてからはとうとう瞑想を本格的に始めている。わざわざ専用の部屋が設けられているのであれば使わない手はない。

部屋の向こう。ラックの上に何らかの聖典が数冊。足を洗うための小さな槽も用意されており、宗教特化のFrancfrancが展開される。

その先は暗く、柔らかなクッションフロアが敷かれた六畳ほどの「礼拝室」がある。床の上には、中東アジア系と思しき青年があぐらをかいている。

「あぐらをかいている」など言ってる場合ではなく、先客がいるではないか。受付で確認した限り、利用者は俺だけの筈である。

青年は俺に気づくと、目を大きく見開き、口元に静かな笑みを浮かべる。

曖昧に会釈を返す。瞑想が日常に根ざす文化背景を持っているのだろう。わざわざ受付など不要と判断したのかはわからないが俄かに緊張する。

彼は俺の瞑想を今から「お手並み拝見」しようとしているに違いない。先ほどの目配せには明らかに挑戦的なニュアンスが含まれていた。本場、本場の瞑想を知る者として、極東の島国でどんな瞑想ができるのか見てやろう、見込みがあったらヨガ王国へ連れて帰り育成枠に入れてやろう、鶴太郎のように。

彼の心は手に取るように伝わってくる。さすがにヨガ王国なる場所には連れてかれたくないが、瞑想自体はやぶさかではない。

彼の隣にそっと腰をおろす。残念ながら股関節が開かないので、あえての正座を選ぶ。静かに目を閉じる。深く呼吸する。

瞑想とは雑念を雑念として認める作業である。頭の中に絶え間なく流れ込む無駄な思考を観察する時間である。視界がピカピカとしていくなか、例えば次のようなことが浮かんでくる。

ヨガ青年の心が手に取るようにわかるわけはないし、完全に妄想であるし、その妄想を止めるためにも瞑想はまあ有効かもしれないが、隣の青年が気になってちっとも集中できないし、じゃあ青年は瞑想に集中しているかといえば、てんでそんなことはなく、普通にスマホでゲームしてやがるな、視界がピカピカするのはそのせいだし、青年よ、甘えるな、本場に甘えるな、今からここのヨガ王は俺だ。俺が鶴太郎だ。

すっきりと瞑想も終わり、俺は今、診察室前で一生呼ばれない片岡鶴太郎の名が呼ばれるのを待っている。

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洛田二十日(らくだはつか)
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