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しびんのある暮らし。丁寧な暮らし。

術後二日目。
少しだけ体が動かせるようになった、そのタイミングで尿道カテーテルを引き抜いてやった。これが罪に問われたら、むしゃくしゃしていた、どのカテーテルでもよかった、そんな供述になる。

尿道カテーテル。
手術後に体が動かせぬ人間にとって自動で尿を排出してくれる非常にありがたい医療装置である。一方で、全身麻酔が切れて体の感覚が戻ってくると、下腹部の違和感と、常に尿意があるような不快感が強まり、あれほど感謝していたカテーテルを「俺の大事なおしっこを奪いやがって、尿泥棒が」と憎み始める。

術後二日目。自力歩行はおろか、上体すら起こせない。
痛み止めの残滓でやはり意識は濁っている。
なのに俺は氷嚢を交換しにきてくれた看護師さんにお願いし、ただ尿泥棒をしょっぴきたい一心で、カテーテルを引き抜いてもらった。途中、看護師さんが「本当に外すんですか?外したら二度と戻せないですよ?」と何度も確認してきたが、無料Wi-Fiに接続するくらい素早く「同意」した。

尿泥棒ことカテーテルと決別してから五分も経たずして、少しだけ冷静さを取り戻し、尿意よりはるかに強い後悔が膀胱にたまる。途方にくれる。身体が動かせぬのに、トイレに行けないのに、催した際はどうすればいいのだろうか。全ての水分を膀胱に向かわないよう、今のうち涙で排泄するしかないのだろうか。ならば、自分の阿呆さに涙を流そう。俺の水分よ、尿になるな。涙になるのだ。

「これ、置いておきますね」

先ほど引き抜きを手伝っていただいた看護師さんが、目の前に何か「形而上」を置いた。急に形而上を置いた、と言われても困る人も多いかもしれない。だが「形而上」としか思えない物体がそこにある。俺がプラトンだったらもう告っている。形而上では深淵で不可能性に満ちた形状をしているそれも、いざ現実世界に舞い降りれば、途端に名前を「しびん」に変える。

しびん。自力歩行ができぬのにカテーテルを抜いたのなら、当然、「しびん」を使わねばならない。まだ選択肢があることがありがたい。これで『レナードの朝』を思い出し、涙を絞り出さなくてもよくなった。

だが使おうとしても、うまくいかない。きっと頭で理解しても身体が「しびん」を信用していないのだろう。いや、俺もそうだ。さっきまで「形而上」の存在だったものに、いきなりそこにおしっこなんてできない。あと「しびん」を構えたタイミングで清掃担当の方がカーテンを開けることが二度ほど続いたことも大いに関係がある。実に申し訳なかった。

イメージを変えよう。「しびん」のイメージを。
しびんを使ってる自分が好きになる、そんなイメージで頭を満たそう。

しびん。いいよね。しびんのある暮らし。丁寧な暮らし。
窓から差し込んだ光が、しびんに透かされて、なんだかカモミールの気分。

「月刊しびん」、創刊。頭の中でページを捲る。
冒頭インタビュー、蒼井優が鎌倉で買った私物のしびんに「金魚みたいでかわいくないですか」と、言ったころまで想像し、何ひとつ心が動かされぬのを確認し、破り捨てる。廃刊。俺の脳みそが可哀想だ。蒼井優も。抵抗感は拭えない。決めた。俺は覚悟を決めた。看護師さんに、相談する。

「すみません。歩行器を貸してください」

術後二日目だが俺は「カテーテル」を抜き、「しびん」を経由せず、歩いてトイレに向かうことにした。補助をしてくださった看護師さんが「もう歩くんですか」と言う。俺は「ええ、まあ、家族や職場早く復帰しないと」と答えた。

本当は、違う。しびんを使いたくないだけである。
だがそのおかげで、俺は驚異的な速度で、物理的に立ち上がった。
立ち上がった時、涙が、込み上げる。尿にできなかった涙だ。


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洛田二十日(らくだはつか)
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