「このモンブランを骨頭としますね」
2024年1月4日。
落語会の打ち合わせのため、九段下駅の喫茶店に向かう。
私は松葉杖である。
診断はすでにされていた。「大腿骨頭壊死症」というそうだ。
全文字恐ろしい。闇落ちした漢字ばかりである。
「そもそも骨頭とは」と立川かしめ氏が当然の質問をする。確かに音だけでは耳慣れぬが「足骨の、プラモデルみたいな部分です」といえばおおよその理解を得られた。
「その骨頭がどうなる病気なのか?」と別の先輩作家が訊く。
言い淀む。まだ診断がおりて数日しか経っておらず、こちらとしても情緒と情報の整理がついていない。つまり「よそ行きの説明」の準備ができていない。
テーブルにはモンブランがある。
「このモンブランを骨頭としますよね」
皆が卓上のカフェ自慢の甘味を見つめ、おのおの私の大腿骨に潜む骨頭に変換する。気の毒なモンブランである。
「このモンブランに血が通わなくなりまして」
ここで俺はモンブランをスプーンで掬う。口に放り込む。咀嚼しながら
「こう、やがて潰れてしまって、足を動かすと強い痛みを伴うのです」
口のなかに広がる芳醇な栗とクリームの甘味。
それとはうらうらはら、削られたモンブランとその断面があまりにも「壊死した骨頭」であるがため、その現前性に全員が顔をしかめる。モンブランが静かに乾いていく。
別の先輩が「治るのか」と訊いてきた。
そろそろ会議の本題に入らねばならないのに、新年早々、後輩の骨頭が壊死したばっかりに余計な時間が割かれている。申し訳ない。そして、この質問には答えづらい。
なぜなら一度、死した骨頭は元には戻らない。目の前のモンブランが元に戻らないように。私の肩に乗った小さな村上春樹が耳打ちしてきた。無視をする。
「人工股関節を入れる手術をすれば、歩けるようにはなります」とだけ答えたところで、「ああ、まあ、それなら」と場の空気はわずかに弛緩して本題の落語会の話へと移行した。
以降、私は発症してしまったこの病の説明をほうぼうで行うことになるのだが、その度に「モンブランがあればわかりやすいのに」と願うようになってしまった。もう別の病気である。右手にモンブラン、左手に松葉杖の男がいたら、私である。間違っても錬金術で骨頭とモンブランを等価交換した人ではない。
さて、人工股関節手術が成功すれば、歩けるようにはなるだろう。
だが私はただ歩けるようになりたいわけではない。
走れるようになりたいのだ。靴下も難なく着脱したいし、階段を二段飛ばしで降りたいし、必要に応じて四股だって踏みたいわけであり、土俵入りだってしたいし、取り組み相手を寄り切れるだけ寄り切りたいし、引退もしたいし、当然つくねが自慢のちゃんこダイニングだって開きたいわけである。
ここから意味なく添加した「相撲要素」を丁寧に省いた希望を主治医に伝え、今ようやく手術日程がぼんやり定まってきたので、経緯と経過を記せるだけ、記す。