(チラシの裏)ヤバい集団に依存し(すぎ)ない為に、個人としての力は必要

「特定外国人によるマナー違反や犯罪が酷いから、極端な集団や政党を支持するしかない」といった思考は、「自分は個として弱いから、集団に頼らざるを得ない」という心情から来ている面がある。

テストや議員枠におけるアファーマティブアクションへ反発が強い人も、「ただでさえ自分の実力はそれほどでもないのに、その上『逆差別』まで加わるのは酷すぎる」という理由がある。

※この記事では、「嗜好による差別」(「肌の色が醜いから嫌い」等)ではない合理的差別を想定している。

共通するのは、「自分は個として弱いから、自分以外の何か(有力者・政党・国家・制度・準拠する集団的アイデンティティ)に頼る」発想だ。

この思考とは、ある程度距離を置かないといけない。

もちろん人間は日々、他人や企業や国家といった何かに、物質的にも精神的にも頼っている。依存しない事はできない。
とはいうものの、生きるという事は、「個として何とかする」がベースに無くてはいけないと思う。

仮に「異物」が増えたせいで、犯罪が増えたとしても、危ない道を避けるとか、身体を鍛えるという対策はできるわけだ。自己責任で何とかする。
自己責任論は大層評判が悪い。しかし基底には、集団的アイデンティティではなく、個として考えて動く、という発想がある。

自己責任を否定した先に、「自分はなんにもできないから、極端な集団や政党を支持するしかない」といった結論に至る。「自分たちは個として弱い」との自己規定からくる差別。これは事実だから、仕方がない面はあるのだけど。

自分の力で何とかする気概は、ある種の過激さに対して距離を置くことに繋がる。

「自分はテストで頑張って良い点を取れるから、『逆差別』問題に関心がない」という風に。この態度は人権思想ではなく、己の強さに由来する寛容さだ。

いや無茶なことを言っているのは分かるけど、こういう考えが希薄だと本当にヤバいので、書き記してみた。私は福祉国家を支持するなど、集団主義的思考が強いので。
個として何とかする気構えが無いと、四六時中、集団に頼って集団的属性を批判するような習慣で、思考が満たされざるを得ないだろう。


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