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私の3.11

今年の3.11は、仕事に追われて終わってしまいそう。
毎年この日だけは、仕事をしていても3.11関連の仕事で、故郷に思いを馳せていられたけど、今年はできなそうだ。
そこで、去年書いていた文章を公開してみようと思う。
私の3.11。自分の故郷が津波に飲み込まれたのを異国で見ていた日。その後、故郷に戻って感じたことなどが書いてあった。
去年書いた文章をもとに再構成して掲載する。

カリフォルニアでむかえた3.11

アメリカ時間の3月10日夜。自分の部屋で勉強しているところだった。Yahooニュースで東北地方で大きな地震があったという速報が流れていた。数日前にも比較的大きな地震があったという話を聞いていたから「また地震?大丈夫?」というメールを家族に送っておいた。そしてまた勉強に戻ろうとしたところ、Facebookが友達の安否報告で騒がしくなった。「生きています」「無事です」。相当大きな地震だったんだな…皆大丈夫かな…と思っていた。そこに、隣に住んでいた日本人の学生が「日本が大変なことになった!」と部屋に飛び込んできた。うちにはテレビがなかったので、テレビのある部屋に行ってテレビをつけてみると、なんと地元名取の田畑が黒い津波に飲み込まれていくところが中継されていたのではないか。しかしこの時はまだ、被害の深刻さは分からず、大きな地震が起こった、地元に津波が押し寄せてきた、私が恐れていた宮城県沖地震が起きてしまったんだな、と思っていた。

私が福島から宮城に引っ越したのは小学4年生の頃。宮城県沖地震が起こるかもしれないということを知った私は、幼い頃にニュースで見た阪神大震災の記憶もあり、こんなことが宮城で起こったら嫌だな、なんで宮城に引っ越してしまったんだろう、と思っていた。遠方の高校に通うようになってからは、大地震が来たらこの道で帰ろう、と脳内シュミレーションをしたりしていた。しかし、それは私がたまたま留学していたときに起こった。

2011年、ちょうどスマホが普及し始めた頃で、被災地でもテレビが使えなくなってスマホが大活躍していたのだろう。NHKもネットサービスで見られるという情報がどこかから伝わってきて、情報はライブで入ってきた。段々と被害の全容が分かるにつれて、そこから伝わってくるのは「壊滅」「荒浜海岸に何百もの死体」というような信じられない情報。ああ、流されたのは田畑だけじゃなかったんだ、犠牲者はもっと多くなる…どんどん絶望的な気分になった。その日はもう夜が遅いからと言って、日本人留学生は解散。部屋から出ると、集まっていたアメリカ人学生が大変なことになったね、と言ってハグしてくれた。しかし、一人で部屋に帰ると心配な気持ちに拍車がかかり、夜を徹してニュースを見てしまった。日本人学生の中には同じ仙台出身の子もいて、不安な気持ちを共有できたが、一人になるとどうしようもなく遠いところで大変なことが起こっているのに私一人が何もできないでいるような気がしてしまった。その夜はフィンランド人とドイツ人の友達とスカイプで話して過ごした。そうやって誰かと話しているだけでも少し気分が落ち着いた。

次の日、11日(金)は授業に行かず、自分の部屋にこもってニュースを見ながら泣いていた。心配したルームメイトがご飯に誘ってくれたけど私は部屋に引きこもって悲惨なニュースを見ながら泣き続けた。
幸い、私は家族と比較的すぐ連絡がとれたけど、一緒に留学していた子の中には1週間くらい女川のお父さんと連絡がつかない人もいた。家族とのメールのやり取りがyahooメールにすべて残っていたんだけど、迷惑メール対策でアカウントを削除してしまって、それも全て消えてしまった…がーん。情報がネットからたくさん入ってきて死ぬほど心配している私と対象的な母とのおもしろいやり取りだったのに。そのほかにもいろんな人からのメールが来ていた。大使館は心のケアの紹介までしてくれていた。震災から8年たった今だからわかることだけど、遠くに暮らす私みたいな人に対しても心のケアは大切だと思った。遠くにいるからこそ入ってくる情報、入ってこない情報があって、入ってくるのは津波で流される人の映像や死者の数。釜石や大槌の避難所や遺体安置所の名簿もネットに載っていて、お父さんの親戚の名前を探したりもしていた。でも自分の暮らす仙台がどうなっているのか、家族がどうしているのか、全然わからなかった。ネットで集めた情報に一喜一憂したり泣いたりしながら毎日を過ごして、とても精神安定上良くないということに自分でも気が付いた。春休みにメキシコに行く予定があったけど、こんな時に行っている場合じゃない、と思いキャンセルしようと思った。だけどみんなに連れ出してもらった。メキシコ旅行はすっごく楽しかったから行ってよかったと思う。だけど、そこでも海を見つめながら泣いていたっけ。

その後も、日本人が集まって募金活動をしたりした。そうこうしているうちに留学期間が終わって帰国することになった。留学は楽しかった。震災がなかったら帰りたい気持ちは1ミリも残っていなかっただろう。


帰国してから

もう十分過ぎるほど、震災については悲しんだし泣いた。震災のせいで私の暗い性格がさらに暗くなったと思う。ふるさとの人たちが苦しんでいるというだけで悲しかった。知っている土地が流されてしまったというだけで思い出が奪われてしまったような気がした。 だけど、家族を失った人、家を失った人、そして原発で避難を余儀なくされている人が、一番の悲しみを味わっている。悲しみのレベルが違う。失ったものの大きさが違う。

私は幸い、親戚も友達もみな無事だった。しかし、周りには震災で友達や家族を失った人がいる。留学先で知り合った女の子のおじいちゃんおばあちゃんが同じ地元に住んでいて、震災直後から一緒に心配していた。その子のおじいちゃんおばあちゃんは海の方に住んでいたから余計に心配だった。

残念なことに、その子のおじいちゃん達は津波で亡くなってしまっていた。帰国してから、その子が現地を見たいとうちに泊まりに来た。まず、警察署に遺品を受け取りに行った。ビニール袋に入った免許証とか財布を受け取った。砂まみれだった。そして、バスに乗り継いで二人で閖上に行った。暑い夏だった。いくら歩いても家がなくなった跡が続くだけ。海がずいぶん近く見えるようになってしまったが、バス停から日和山まで遠く感じた。汗だくになって着いた日和山で手を合わせた。そこを新聞社のカメラマンに撮られた。私も今その仕事をしているけど、辛い思いをしている人にカメラを向ける仕事ってつらいよな…。帰りはヒッチハイクをしてバス停まで帰った。


ボランティア

6月末に帰国してからは、被災地各地を見ようと、とにかくボランティアに行っていた。震災後ずっと被災地に通っていた先輩に気仙沼に連れて行ってもらった。残念ながら震災前に行ったことはなかったが、きっと三陸リアス式の美しい海岸だったんだろうなと思った。震災の後でさえ美しかった。キレイな山の合間にある小さい港が破壊されていた。閖上のようなグラウンドゼロ的な景色とは違った景色だった。私たちが行った唐桑は、学生が中心となってボランティアをしているところで、地元の被災した高校生も混じっててとても活気があった。夜、寝袋で雑魚寝する前にも、怖い話大会をしちゃうような若い人の集まりだった。今考えると不謹慎極まりない。お化けとか全く信じない私でも、たくさんの人たちが亡くなった地域でする怖い話大会は、本当に怖かった。余震もたくさんあって、あまり夜寝られなかったというのもある。

唐桑での私たちのミッションは、ガラスの浮きを集めることだった。ガラスの浮きは高価な物らしく、流されたものの中から使えそうなものを集めるしかないという依頼主の判断だった。逆に、そのくらいしか私たちにできることはなかった。立派だっただろう家には赤いスプレーで〇×が書いてあって、それが解体OKの意味なのか生存者捜索済みの意味なのか忘れたけど、全壊の家は壊されるのを待つだけだった。その中で目にしたのは、天井に突き刺さってる食卓など、津波の高さと破壊力を想像させるものばかりだった。

ボランティアをしたあとに漁師さんにもらったサケ。家に帰ってお母さんに料理してもらったけどとても泥臭くて食べられなかった。「遺体」という本を読んでぞっとしたのが、海に流れてしまった遺体はすぐに魚についばまれてしまうということだった。お母さんと、きっと津波のヘドロをうんと吸ってしまったんだろうね、とその魚を哀れんだけど、その魚も人間を食べたりしていたのかな…

漁師さんを手伝うボランティアもさせてもらった。生業も失った大変な人たちだったのに、漁師の人たちは強いなと思った。一度、亘理の鳥の海で漁師の人たちを手伝うボランティアをしたときのこと。網を広げて穴が空いているところに印をつけたり、網をほどいたりするボランティアだったんだけど、私たちは何もすることができず。漁師さんたちはするすると網をほどいていって、すごいなあと思った。
漁師さんには彼らなりの海に対する哲学があるのだろうと思う。海は恵みも奪いもする。毎日海と向き合ってきた漁師なりの哲学があるんだろう。私が取材した北茨城の漁師も「家や船はモノだから壊れても直せるけど、命は一度失ったら取り戻せない」と言っていた。億単位の大事な商売道具を失ってもそう言い切れる漁師さんはとてもかっこいいなと思った。

もう一つ、印象に残っているのは、石巻の仕出し屋さん。泥を被った大量のお皿を大きなプールでひたすら洗うというボランティアだった。そこの料理人が皿を洗う間、ずーーーーっと食べ物の話をしていて、やっぱり料理人ってグルメなんだな、と思った。

そのほかにも、閖上で写真の洗浄や草刈のボランティアをした。

ボランティアはこうやって、普段知らない職業の人と知り合うことができてとても貴重な体験だった。しかし、当時は自分の無力さを感じることのほうが多かった。震災後、そんなに時間がたっていないとき、大学のボランティア団体の学生のなかで自殺者が出て話題になっていた。その人に何が起こったのかわからないけど、私も被災地に行くたびに、ボランティアに行くたびに、自分の無力感を味わった。被害が大きすぎて学生1人の力が無に思えてしまったのかもしれないけど、人を助けに行って自ら死んでしまうなんて…と、その時は結構衝撃的だった。

当時、ちょうど学生だった私たちがとった行動はそれぞれだった。順調に就職していく人、地元に残る人、東京で得た職を手放して故郷に帰ってくる先輩もいた。それぞれの決断に他人がどうこう言うことはできない。ただ、私自身は東北のために何ができたかと言われたら、何もしていないとしか言いようがない。国際的に活躍したいという夢を追ったほうがいいという担当教授の言葉に励まされ、夢を追った自分。あのまま仙台に残ったら、きっと後悔していたと思う。仙台を離れて、希望の職につけた今、自分の選択に満足している。今年は違うテーマの仕事で精一杯だったけど、震災のことは自分のためにもずっと追っていきたい。