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卒業制作について私と話し合う会

またわからなくなってきたので、また考えてみることにしました。

私は昨年の大学4年生時、卒業制作の単位が不認定で、今年もう1年学校に通っています。留年生です。

なぜ不認定だったか、というと、教授のメールには「質疑応答が不誠実で制作意図が多数の教授に伝わらなかった」といったようなことが書かれていました。
他にも自分で分析してみると「技術力が足りていない(=提出作品のクオリティが低かった)」「認識の違いを理解できていなかった(=相手の聞きたいことと私のプレゼン内容がズレており、相手に伝わる言葉選びや説明の順序ではなかった)」等も原因と考えられます。

……なんて考えつつも、対外的な言葉を取っ払うと正直まぁ当たり前に、私が大学をナメていたのがいけなかっただけなので、どう掘っても色んな方が擁護してくださっていても私のせいでしかなく、もちろんだいぶ反省しました。
自業自得とはいえこの1単位のために消えたお金(学費+就職できていたら貰えていたかもな賃金)のことを思うとキッッツくて普通に病んだんですけど、FPの資格取ったり、この1年がなかったら出来なかった経験もあったりで、よし、心の整理はここらへんで終わらせます。

ということで本題。
今、私は何を考えていて、何を迷っていて、どうしたいのかを、私と話し合いにきました。

こんにちは、私。調子はどうですか。
昨年の12月、落ちた連絡を受けた後からじわじわと卒業制作を進め、9ヶ月ほどが経ちましたね。これは他の4年生の子達と比べたら、前年度も含めると断然長い制作期間なわけで、そりゃあもう、頑張らないとですね。

ちょっと待った!! その肩の力、本当に必要?

えっ……いらない…かも…?(いらない理由/いる理由 も後で考えたい) 肩の力、抜いとくか……抜き〜

まぁではその9ヶ月くらい、何をしてたかというと「①分析→②計画→③制作→④頒布・試行→⑤過程や結果を踏まえて分析→⑥計画→⑦インプットを挟む→⑧制作」みたいな流れでした。細かく見ていくともっと細かいけれど大まかはこんな感じ。

そして今、これを書いている私は、「⑨制作」において絶賛躓いているわけですね。
何を制作しているかというと「カミングアウトしようかな? と思ったら読む本『セクマイ』 カミングアウト準備BOOK」です。

これは「③制作」時に作っていた #誰かのためのプロフ帳 という、話し合いにくいことを話しやすくするためのデザインを目標とした制作物において、アンケートを取った何種類か(①お金 ②嫌なこと ③カミングアウト)を作ってみた後、やっぱり「カミングアウト」についてもう少し深掘りしたいな、と感じたため、そちらに舵を切ったものになります。

以前から、カミングアウトというものに対しては、制作のテーマ等以上の興味というか、人生において避けては通れないものとして、アンテナを張ってはいました。そのため前年度から度々、論点には上がってきていた話題です。

そして今ここまで書いてから気づいたんですが、「カミングアウト」という言葉の浸透度への不理解がまた出ていますね。注釈を入れます。

カミングアウトは、自らの性的指向、恋愛的指向、性自認を自己開示することを表す言葉であるカミングアウト・オブ・ザ・クローゼット(英: coming out of the closet)の省略形。カミング・アウトとも表記される。

Wikipedia

こうやって、私にとっては当然のように使っている言葉vs他者、のギャップを埋めないままに進めるとまたすれ違いが起きるわけなので、ここも気をつけたいポイントです。これは、『初めて読む人の気持ちで最初から何回か読み返す』を繰り返すことである程度防げる可能性があります。

さて、それではなぜ今「カミングアウト準備book」の制作段階で躓いているかというと、「私はそんな大それたことを偉そうに語れるほど偉い私ではない」というのが1番の理由です。
ここももしかしたら、ギャップがある部分かもしれませんが、セクマイ(セクシャルマイノリティ…性的少数者)

性的少数者(せいてきしょうすうしゃ)とは、何らかの意味で性のあり方が多数派と異なる人のこと。 英語の「Sexual Minority」(セクシュアル〈セクシャル〉・マイノリティ)の日本語訳である。 性的マイノリティ(せいてきマイノリティ)とも言う。 日本語ではセクマイとも略される。

Wikipedia

にとって、「カミングアウト」というのは、多角的であり大きな問題です。お友達に「私、女の子も好きなんだよね〜」と雑談のノリで言うことも、親族に「実は今、同性のパートナーがいて、一生共に過ごすことを前提に同棲してるんだ」と重々しく告げることも同じ「カミングアウト」と括られているのが、事態を更にややこしくしています(友達が軽く、親族が重い、なんてことも一概には言えませんが)。

そのため、異性を好き(ヘテロセクシャル)で、特に社会の中の恋愛や性別の仕組み等へ疑問を持ったことのない方に対して、カミングアウトを正しい質量で説明することが、そもそもだいぶ難しかったりします。セクマイ間でもかなり認識や感じ方に差がある言葉です。

そんなわけで、そんな、ただでさえややこしい「カミングアウト」についての本を作るとなったら……さぁ大変。

……けど、それはまぁわかっていました。
元々、「友達へのカミングアウト」「同僚へのカミングアウト」「親族へのカミングアウト」はほぼ別物に近いと感じていたので、『今回は親族メインです』みたいな注釈を入れることである程度範囲を狭めたり、インプットも(多分全然足りてないですが)それなりにし続けたり、そういう、ことは、しました。
けれどやっぱり何よりも、語るに足る私ではなく、しかし私が語るのでなければ(他の本からの引用を連ねるのであれば)私が作る意味はない、みたいな部分が、うっすらと見えてきちゃい……今です。※多分全然、他の本やネットなどからの引用まとめを綺麗にデザインし直したものでも、正直元々のセクマイ向け冊子の母数が少ないため一定の価値はあると思うんですが、卒業制作における提案性…という、教授につつかれた部分を掘っていくと、なんか違うかも?に行きつきました。

でも、欲しいし、作りたい。

それは制作の強い動機となる根源的な欲求であり、もっと言うと前年度も作りたかったのはこれでした。

では、それはなぜなんでしょう。
根源的な欲求の根源を探っていきます。


「カミングアウトについて書いてある本」が、あるかないかで言うとそりゃ、自身の経験を語るエッセイ形式のものも、カミングアウトが発端となり起きた自殺事件を取り扱っているものも、カミングアウトされた側の教師や親向けのものも、セクマイ当事者に向けたカミングアウトに関する記述も、あるんです。前述の通り母数は少なくとも、ネットに記事などもたくさん。単純な「情報」も豊富な「経験」も、先駆者の方々のおかげで、私が作らずとも触れられます。

そんななかで、なぜ「カミングアウト」及び「本」にこだわるのか? という部分。

これはもう、恐ろしく単純な話なので、これ、いいのかな?って感じなんですけど、悪いって言われてもどうしようもないくらい、それしかない理由があります。

私って多分、後にも先にも、好きな人のためにしか生きてないし作ってないんですよね。

※私には同性のパートナーがいます。
細かいことを言うと、(好きな人のためになるように生きたいし作りたい自分のためにやってるので]自分のためなんですけど。

だから、「カミングアウト」に多大なる興味があるのは、好きな人のことを自分の親に伝え「ふたり」を1単位として他親族のように良好な関係値を築きたいし、好きな人が好きな人の親へ嘘を吐き続けて生きていくような環境は変えたいし、もちろん罵詈雑言なんて1mmも浴びてほしくないから、なんですね。
そのための下準備として「カミングアウトの準備」が必要だと感じており、だから取り組んでいます。

そして一方の、「本」の形にする理由としては積極的より消極的というか、上記の理由であればwebサイトやsnsを駆使する必要もないため、合理的な消去法として、手渡しやすいし共に読みやすい(=実際に使用しているイメージが湧く)、あとついでに言うと私も一番やりやすい(=クオリティが担保でき、無理なく届けられる可能性が上がる)、本のアウトプットが最適だと……みたいな、ところで。
追記※「本は安心感につながる」という説も出てきました。インターネットから得る情報との感覚的な違いも掘っていきたいところです

そんなわけで、そこを主軸にしようと思うと、「序文」も「目次(載せたいもの)」も「文章の書き方」も、現在なんとなく漠然と全セクマイへ?みたいな風に作っていたものたちがすべて、全然変わっていくわけで。

向かいたい方向性をちゃんと見定めて、もう一回作ってみよう、と思いました

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