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『西道謡』かく詠えり

承和元年正月十八日、小野篁は三十三年途絶えていた遣唐使の副使(ふす)に任じられた。このとき三十一歳。大使(かみ)は前回の大使を務めた藤原葛野麻呂(かどのまろ)の子、常嗣(つねつぐ)。二年後の承和三年五月の解纜を目指し、その月末に造舶使が任じられ造船が開始される。古来『四つの船』といわれた遣唐使は、二三の例外を除いて四隻の船団を組み唐へ渡ったとされる。今回の第19次(これは研究者の間でつけられた唐使派遣の回数で、書物により多少違ってくる)も例外に漏れず四隻の大船が建造されることとなった。推定船長25メートル、船幅7メートル、舳先はなく船底も平らな箱型の為、 四つに仕切られた船倉に均一に荷を敷き詰め、副櫓と呼ばれる二本の細い櫓でバランスを取り、船の両脇に長尺の竹を束ねフロート代わりとした。推進力は網代帆による風力か櫂で水手が漕ぐ、あとは海流を利用するしかない。これに第一船から四船までの数をふり、一を大使、二を副使、三と四は判官を船頭(船長のこと)として、一艘あたり80~140人ほど乗せる。無論これは水手(かこ)と呼ばれる船員を含めてのはなしだが、それにしても数が多い。短水路のプール(25m)の3コース分ほどの中に100人が2 ヶ月近く寝泊りをするのである。かなりの苦痛が伴ったことであろう。今回の19次遣唐使は総勢520名あまりといわれている。 乗員の構成は大使副使各一名、判官四名、録事三名、准判官・准録事若干名、遣唐学生・学僧(明法学生、文章生、樂学生、陰陽学生など)、官吏の兼従、碁士、など。船員は船事、水手、船大工など。


さてことは予定通りに進み、難波津から出立の日を迎え、四隻は瀬戸内の穏やかな海で身を馴らすように解纜したのだが、四日後の晩に大嵐に遭遇し、輪田泊(現在の神戸港周辺)に避難を余儀なくされた。ここで修理を受けたとされるが、当時の修理というのが、欠損部を板で補強し、浸水を防ぐために隙間に海藻を詰めるというとても乱暴なものであったといわれている。(これには少々異論がある。まさか 海藻を詰めただけではすぐに浸水してしまうだろうから、海藻を煮詰め寒天状のものを作り船体に塗りつけたのではないだろうか。これなら防水効果はありそうなのだが…。)この後、博多まではなんとか航海 をつづけるが、博多に入った途端風がぴたりと止んでしまった。 気をもむ嵯峨上皇を尻目に同年八月、出向するが難破、第一船は二日後に筑前に着岸、第二船は松 浦沖に帰着、第四船は四日後に第一船と同じ筑前に漂着した。第三船は被害が最も大きく、船員のうち 百余名は行方不明、生存者二十八名という大惨事となった。翌年十月にも渡航失敗を繰り返し、とうとう篁は承和五年の入唐拒否を敢行するのである。


よく知られた話であるが、裏を読んでいくと篁の気まぐれやわがままで渡航を拒否したのではない事がわかってくる。 理由としてよく挙げられるのは常嗣との確執である。二度目の難破により第一船は航行不能なまでに 破損した。渡航をあせっていた常嗣は比較的損傷の少なかった第二船との交換を求めたが、船頭の篁がこれを拒否、二人の関係が悪化した、というのである。確かに第二船は二回目の難破のおり、唯一目的地の遠値嘉(とおちか・五島列島の一島)まで到着しているので、被害はなかったであろう。しかし、破損していたことにたいしたかわりはなく、常嗣が自ら「太平良(おおたいら・たいへいろう)」と名付けた船を捨ててまで第二船を欲したのかが解からない。事実、こののちの渡航では第一船も二船も成功している。『最後の遣唐使』の著者佐伯有清はこれを「父葛野麻呂の渡航成功に対するコンプレックス」が原因であるとしてい る。葛野麻呂は最澄を伴って入唐し、かなりの成果をあげた。必然とその子である常嗣には、父と比較されるという気負いが自らに枷を架けていた。船名を「太平良」としたのも、葛野麻呂が桓武天皇から賜わった「この杯は太(おざなり)には不有、平良けく行かまほしと勧める酒」という詩文から取ったともされる。功を焦った常嗣が前後の見境なく船の交換を言い出した事が、篁の不快感を増大させたことは考えに堅くない。


また篁が近親の石根の死を心に重く留めていたという考えもある。小野石根は第17次遣唐使の副使として入唐した人物である。しかしこの石根は遣唐使最悪の遭難事故の犠牲となってしまう。17次遣唐使の大使は佐伯今毛人(さえきのいまえみし)であった。ところが今毛人は病気を理由として出立せず、代わって石根を持節副使、大神末足を副使として出港した。入京にはごたごたしたものの、無事使節としての務めを果たし、石根は皇帝に惜しまれつつ唐都を後にした。大いなる成功を手に入れた石根であったが、悲劇は帰路におこった。
当時は南海路と呼ばれる蘇州から大隈に向かう航路が一般的となっていたが、沖縄をすぎたあたりで暴風雨に遭い、船は大破、半ばから折れて海中へ散開した。石根は自らの責務から船を離れず、海中に没したらしい。石根と篁は時代的に重なるところはないが、この話はよく知られていたことであった。小野のように渡海の多かった氏族にとっては、石根の存在は一種禁忌になっていたかもしれない。このことと、常嗣の傲慢な行動、さらに第三船の難破と重なり、篁の乗船拒否につながったと見られる。


さらに当時の唐の政治状況にもあると考えられる。玄宗皇帝以後、唐の国力は急速に減退をはじめ、 廃仏の動きとあいまって、篁の入唐の話が出たころにはわざわざ危険を冒してまで行く必要があったとは思えない。『入唐求法巡礼行記』に見られる経典の大量請来は確かに実のあることであったし、藤原貞敏の『琵琶譜』、春苑玉成の陰陽道などもその後の文化の発展に意味はあると思う。それに対する損失が大きすぎたのである。


以前に「気をもむ嵯峨上皇を尻目に」と書いたが、この渡唐を企画したのは仁明天皇ではなく明かに嵯峨上皇である。上皇は文化事業には滅法目がなく、自らが主上に在った頃、 国交があった渤海国と互いに遣使・返礼を繰り返し、その送迎で国家財政が逼迫するほどであった。この外交姿勢に対し、篁は疑問を持っていた。
小野氏はこの頃すでに独自の貿易ルートを確立していたのではないかという指摘は以前になされており、篁が『白氏文集』の詩句を知っていたことや、『和漢朗詠集』に白楽天と似た詩句を詠じていることなども、貿易によ り得た唐の知識の一例とみられている。つまり、危険を冒してまで、入唐する理由が篁にはなかったのである。


篁は嵯峨上皇に対し、この無益な渡唐をやめさせる目的で以上のようなことを皮肉たっぷりに『西道謡』のなかに詠じ、逆鱗に触れたのではないか。

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