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五代目瀬川は誰?〜大河ドラマ『べらぼう』より〜
『べらぼう』第七回は、倍売れる細見を蔦重が工夫と足で作り上げていく物語。その助けとなるべく、幼なじみの花の井が、名跡「瀬川」を継ぐ決意をする。
今回はこの「瀬川」についてのお話。
瀬川のはじまり
「瀬川」。吉原は松葉屋半左衛門の店で受け継がれる名妓の名跡として知られている。記録によってまちまちだが、9~11人が「瀬川」を名乗っていたといわれる。
初代とされる瀬川のことは、神沢貞幹(杜口)の『翁草』(明和九年=1772年刊)に記されている。
瀬川の父は大森右膳。大和国奈良の産で、若い頃は京都に出て、公家の富小路家に仕えた。だが、同家の女中に手を出して、バレて二人共に暇を出される。こうなると京都にも居づらくなり、女を連れて大和へ帰ると、大森通仙と名を変え、町医者を開いて慎ましく暮すうちに、一女をもうける。「たか」と名付けられた娘が、のちの瀬川である。
年頃となった「たか」に、奈良町奉行所与力・玉井与一右衛門の若党・源八から艶書が届いた。源八は札付きで知られていたので、身持ちの堅い「たか」はなびかなかった。これに逆上した源八は、悪質な嫌がらせをする。夜中に鹿を打ち殺すと、通仙宅の門口に置き去ったのだ。これは奈良特有のことで、春日大社の使いの神鹿を殺せば死罪、放置しても咎を受ける定めとなっていた。翌朝、通仙はこれを見つけて驚いたが、黙っていることも出来ず、致し方なく奉行所に届け出た。奉行所も吟味したものの犯人は見つからず、牢に留め置く通仙の仕業とも思えない。結局、犯人不明のまま通仙を所払いに処した。(こののち通仙は亡くなる)
通仙亡き後、食うに困った母子のもとへ、通仙の友人という狂歌師・鯛屋大和(偵柳)が、「たか」の縁談を持ち込んだ。大坂城代内藤豊前守弌信の家臣で、勘定役百五十石取の小野田久之進。とんとんと話は進んで、久之進は「たか」を娶ると、母も一緒に引き取り、仲睦まじく暮らしていた。
享保三年、内藤豊前守は大坂城代の役を御免となり、江戸へと下る。家臣である久之進も付き従い、深川の長屋へ移ったが、まだ勘定の後始末が残っており、主君から預かった450両を懐に大坂へ向かうこととなった。東海道の江尻宿に差しかかるあたりで、にわかに盗賊に遭遇、あっけなく殺害されてしまった。これに内藤豊前守は激怒、「盗賊などに命奪われるとは」と、小野田家は家名断絶、母と「たか」はまたも流浪の身となる。
若松屋金七は小野田久之進と昵懇の仲であったことから、「たか」とその母を引き取った。ところが今度は若松屋が貰い火で焼け出されてしまう。金七は妻の弟である竹本君太夫を頼り、そこに、「たか」母子も住まわせてもらった。
だが、さすがに心苦しく、「たか」は君太夫に打ち明ける。
「このままでは老いた母を養うこともままなりません。我が身を吉原へ売るほかありません。その金で母を養いたいと思っております。また、遊郭は諸国の人々が集まる所と聞いております。もしかしたら夫の敵の手掛かりが掴めるかもしれません。どうか周旋してください」
と泣いて頼んだ。君太夫もならばと吉原は松葉屋に話をして、「たか」を十年の奉公、百二十両で抱えることとした。
「たか」は、この金を金七に預けると、母のことを頼み、松葉屋の突き出しの女郎となる。元々、容姿に優れて、元は武家の出であるから行儀作法は言うに及ばず、諸芸に通じ、教養もある。松葉屋半左衛門は大いに気に入り、店の頭に据え、「瀬川」と改名させた。
享保七年四月、上方の客三人が松葉屋に数日逗留した。女郎をあげての遊興三昧に飽きたのか、半左衛門に、
「鎌倉見物をして、またここに帰ってくるから、金子を預かってくれ。もし遊山で金が足りなくなったら使いを出すから、そいつに渡してくれ。」
という。半左衛門も承知はしたが、
「金銀の事ですから、安請け合いはできません。印形(いんぎょう=はんこ)を捺していってください。」
と答えれば、それはもっともだと、客は判を捺した紙を預けた。
半左衛門は女房に話をして、この紙を見せた折、瀬川もチラリとこれを見た。見覚えある判だと、部屋に戻って久之進の書付を取り出すと、まぎれもない亡夫の印形。その客の腰の物(脇差)を見せてもらうと、これも亡夫の差し料に間違いない。
瀬川は何事もないように脇指を返し、部屋に帰ると、金七の許へと使いを走らせ、かねてから準備していた短刀を帯に差し、打ち掛けで隠して、件の客のいる座敷へと向かった。襖の隙間から中を覗くと、客はあの札付きの源八であった。柱にもたれる源八に声を掛け、振り向いたところで肩先より乳の先まで短刀を突き通した。源八は何が起きたか分からず倒れ込む。連れの者は、瀬川を留めようとするがこれを振り払い、「夫の敵」と馬乗りになってとどめを刺そうとするところを、騒ぎを聞きつけた半左衛門と店の者に
「仇討ちとはいえ、確証なければお上への申し開きもできない」
と、押しとどめられた。
されこここから、町奉行所の取り調べが始まり、「鹿殺し」と通仙陥れのこと、京都でも悪事を働き出奔、街道での強盗働き、「たか」の夫・久之進殺しと悪事が次々と明かされる。連れの者も同様のものと知れ、鈴ヶ森にて、源八以下二名共に打首獄門と相成った。瀬川は本懐を遂げ、この日をもって遊女奉公御免となり、知らぬとはいえ松葉屋は盗賊に宿を貸した罪により、瀬川抱え料の残金をチャラにさせられた。
源八らの所持していた金子200両は元来は内藤豊前守のものであるが、公儀に届け出がなかったので取り上げとなり、若松屋金七、竹本君太夫に瀬川並びに母の養い料として下げ渡された。
一件が片付くと、瀬川は幡随院に入り、剃髪して自貞と名乗って、浅草あたりに再法庵という庵に母と共に住まいして、亡き父、夫を弔った。
少々長くなったが、この翁草の中に気になる記事がある。
この名は、松葉屋、代々の通り名にて、通例の女郎にはこの名を付けさせず、前の瀬川は、大伝馬町の大福長者の何某に受け出され、しばらくこの名、絶えて至りしを、これほどの器量なら都合よしと、瀬川の跡継ぎにして、二間の座敷を持たせおけば、やがて、吉原にその名、ときめきたる。
つまり、瀬川は「たか」を初代とするが、それ以前から別格の遊女が名乗る「通り名」として瀬川は受け継がれ、容姿優れて諸芸に通じた「たか」を「瀬川の跡継ぎ」にした、というのである。これが本当なら、なぜ「たか」が初代とされたのだろうか。
しかし、この「瀬川の仇討」については、以前から実際あったことなのか?と、眉唾ものとして語られ、直木三十五などは『傾城買虎之巻』で、端からこれは嘘の作り話と言って、ところどころにツッコミを入れている(だが、つまらないとは言っていない。)ので、そのあたりも定かではない。
四代目と五代目の間
世に名妓として知られた四代目の瀬川は、宝暦年間(1751-64)の頃、松葉屋に出ていたとされる。その美貌と、諸芸に通じ、教養の深さでたいそうな人気となったが、宝暦五年の年末に江市屋宗助に身請けされている。この身請けは、さる大藩の家老が瀬川を請け出したのだが、それでは差しさわりがあるので、表向きは江市屋のこととした、と噂されたものである。
さて、この四代目とされる瀬川、無論吉原細見には載っている。
発行年 『題名』(版元) 妓楼名 源氏名
寛延四年『細見吉原絵合』(鱗形屋)松葉屋瀬川(筆頭)
宝暦二年『吉原細見 太夫地森』(鱗形屋)松葉屋瀬川(筆頭)
宝暦三年『新吉原細見 曙ヶ原』(鱗形屋)松葉屋瀬川(筆頭)
宝暦四年『吉原細見』(山本九右衛門)松葉屋瀬川(筆頭)
宝暦六年『新吉原細見 委栄女居処』(鱗形屋)松葉屋瀬川(筆頭)
この宝暦六年については、前年の暮れに身請けが決まったということで、細見の改めが間に合わなかったという事であろう(記されている禿の名も同じなので、身請けされた瀬川のこととみられる)。
だが、『べらぼう』では五代目瀬川となる花の井の前に、「自ら命を絶った瀬川」が存在したと語られている。
実は、江市屋宗助に身請けされた瀬川の後に、間をあけずに「瀬川」を襲名した者があったらしい。時期で言うと、宝暦六年から八年までの間で、『続淡海』宝暦八年三月二十五日条に、
同し比新吉原松葉屋内瀬川と申遊女 近年之名物 當年十九才に成候由 如何致候哉自害いたし 書置もなく色々取りさた有之
予心安仕 右瀬川へ馴染毎度かよひ候処 其朝は例帰候跡正に右之通の事在 暫く胸をひやし候事承候。
(国立公文書デジタルアーカイブより)
とある。と、いうことは名妓で知られた四代目と『べらぼう』に登場した五代目の間に、もう一代「瀬川」がいたこととなる。
(詳しくは向井信夫『松葉屋瀬川の歴代』というエッセイに詳しく書かれている)
実際の五代目瀬川は花の井ではない
細見をいろいろに並べて見比べていると、ふと松葉屋に「花の井」という女郎がいることに気がついた。吉原細見にはじめて名が見えるのは安永二年の『這嬋観玉盤(このふみつき)』である。しばらくその名を見ることができるが、いわゆる五代目の瀬川の名が載った安永四年の『籬の花』でも花の井は印のない女郎(おそらく振袖新造)として名が載っている。
と、なると、実際に五代目の「瀬川」となったのは誰だったのだろう。
まず、瀬川を継ぐには前年の細見に「座敷持」という位で載っていなければならない。安永二年の『這嬋観玉盤』で座敷持であったのは六人。「しきざき」「はつはな」「とみの介」「はつきぬ」「うつせみ」「はつのと」である。
翌年安永三年の細見『喜見が夜』では同じ六人だが、「しきざき」「とみの介」「うつせみ」「はつのと」「花川」「はつうら」で、「はつはな」と「はつきぬ」は昼三(高位の遊女)になって「花紫」と「初紫」の名を継いでいる。
さて、問題の安永四年の『籬の花』で、座敷持は五人となり、「しきざき」「うつせみ」「はつのと」「花川」「はつうら」で、「とみの介」の名が消えている。どうやらこの「とみの介」が五代目の「瀬川」となったようだ。ただ、身請されたり不慮のことがあったりで、細見から名が消えている可能性もあるので、確定ではない。
では、花の井はどうなったのか。天明四年の吉原細見ではまだ無印の新造であったが、天明五年の細見から名が消える。改名をして女郎を続けたのか、年季が開けたのか、ここまでしか分からない。
史実は史実として、創作は創作として。『べらぼう』は実に魅力的な人物像を作り上げてくれた。花の井改め五代目瀬川、注目ですね。