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吉原細見ができるまで〜大河ドラマ『べらぼう』より〜

『べらぼう』第二回放送は、「吉原細見」の出版に奔走する蔦屋重三郎の物語。
そもそも、「吉原細見」とは何かというと、吉原にある引手茶屋や妓楼がどこにあり、そこに抱えられている遊女の名前や位などを記した「吉原ガイドマップ」のこと。まずは「吉原細見」より以前の、元吉原(日本橋界隈にあった初期の吉原)のガイドマップともいうべき「遊女評判記」からみてみよう。


読み物「遊女評判記」の登場


遊郭の形が定まり、大坂の新町、京の島原、江戸の吉原ができると、ここに抱えられた遊女の容姿や伎芸を論評したり(「評判記」)、遊郭での振る舞いや遊女との遊び方を指南する(振る舞いや約束事を「諸分(しょわけ)」といい、これを伝えることを「諸分秘伝」という)読み物が登場する。遊郭のあれこれを記した仮名草子のジャンルをまとめて「遊女評判記」という。
評判記の内容は、ただ遊女の情報を掲載して淡々と評したり、マニュアルを記するのではなく、遊郭で繰り広げられる遊女との物語に、実在の遊女の論評や遊郭の手順を差し挟んだり、遊郭へ行って様々な遊女と出会い(評論)、そこでの体験(マニュアル)を書き綴る「疑似ルポルタージュ」のような形態をとるものであった。つまり、情報誌プラス娯楽としての読み物、仮名草子であった。初期の作品にはこんなものがある。

『露殿物語』
寛永年間(1624-44)の初期に成立した『露殿物語』が現存する中でもっとも古いとされる。

主人公は朝顔の露の介という少年。吉原でなじみとなり、二世を誓った太夫と駈け落ちをしたが、バレて太夫は連れ戻される。悶々とする露の介は、友人の世間話から太夫の出奔を知り、東海道を尋ね歩いて西へと向かう。途中、吉原に勝る京都六条三筋町の繁盛ぶりに魅せられて、吉野太夫に入れ込んでしまう。そんなとき、吉原の太夫と露の介は邂逅。二人の太夫の間で悩み、露の介はとうとう出家、吉原の太夫もあとを追って出家した。

これだけ聞くと、中世の「御伽草子」や「説経節」のような筋書きであるが、吉原が出来て10年ほどで、こういった物語が描かれるようになった。

『四十二のみめあらそひ』
『露殿物語』と同時期に成立した仮名草子で、室町中期に作られた疑歌合物(歌合に擬した和歌集)『四十二の物あらそひ』を遊女に変えてパロディとした評判記である。遊郭の楼主や遊女などを貴族風の名にもじり、歌合にかこつけてその優劣を評する形式を取っている。

『そぞろ物語』
寛永十八(1641)年に出版された、吉原に取材した仮名草子。書いたのは三浦浄心。浄心は、永禄八(1565)年の生まれで、元は後北条氏に仕え、豊臣秀吉の小田原攻めの折には小田原の城に籠った経験をもつ。のちに仮名草子『北条五代記』を執筆している。「三五庵ぼくさん(木算)入道」なる人物の元吉原の遊女の評論、遊郭でのお作法、遊女以外の中の娯楽等のルポを浄心が聞き取り、まとめた(ていの)読み物。

それぞれに工夫は凝らされているが、内容はまだ未熟で出色の出来とはいえない(文章ド下手なお前が言うな!)。それでも読み手は遊郭の「情報」が得られる読み物として楽しんだ。この「遊女評判記」が、のちに井原西鶴『好色一代男』の誕生に少なからず影響を与えることとなる。

『あづま物語』
寛永十九(1642)年に発行された仮名草子。江戸にやってきた男が友とともに上野や浅草など名所を巡り、吉原を見物して遊女を評するという紀行文的な物語だが、この「遊女を評する」の部分で「名寄せ(人や名所を寄せ集めること)」が行われ、これがのちの細見の嚆矢となったとされる(これについては否定する意見もある)。

『あづま物語』の名寄せが細見の嚆矢と言ったが、実はこのあと「遊女評判記」は幾らも出版されるが、「細見」を載せるものはしばらく出ていない。細見が登場するのは、新吉原へ移ってからである。

「評判記」は高級な遊女の話が多く、包括的に吉原が理解できるような案内をするものではないし、何年も経たずに情報が古くなってしまう(ゆえに後ろに最新情報を追加する本も現れる)。「諸分秘伝」もしきたりがしょっちゅう変わるわけではないので、先に出されたものの焼き直しとなるので、目新しさはなくなる。
そこで読者の気を引くために、「評判」というより「醜聞」を強調した「遊女評判記」が出版される。今も昔も変わらない「エロ」と「ゴシップ」を売り物にした読み物にシフトしたわけだ。

そんな中で『吉原草摺引』(元禄7(1694)年)が公儀の出版統制に引っかかり、出版、販売に関わった「本町壹丁目太右衛門店之者 平三郎」ら四名が処罰される。これは「エロ」がいかん!ということではなく、『吉原草摺引』では公儀が「※諸人迷惑可致儀其外可相障儀開板一切無用に可仕致候」と御触を出していたのに、「開板(新たに版木を彫って刷ること)」して、これを販売したとして、吉原の「香伯」なる人物が訴え出たことで処罰されたのだ。

※諸人迷惑致すべき儀、其の外相障るべき儀、開板一切無用に仕るべく候

ちょうどこの頃は「遊女評判記」は不調気味で、出版の数もグッと下がっている。先に述べた井原西鶴の『好色一代男』が天和二(1682)年に刊行されており、西鶴の俳諧の素養や古今の古典の知識を取り込んだ新しい文章は、大坂のみならず江戸でも出版され、流行した。つまり仮名草子から浮世草子への移行期に当たる。

「遊女評判記」の後退は、良質な本が生まれたことや、訴訟沙汰のリスクにはじまったことではない。それ以前に吉原の庶民化も一因になっている。庶民が通えるところになったことで、太夫や格子とは会えなくても、遊びには行ける。そうすると、手の届かないところの情報より、もっと手近なところの情報がほしい、とこうなる。時代のニーズから現れたのが「吉原細見」なのだ。

「吉原細見」の誕生


現存する「吉原細見」としては、元禄二(1689)年に一枚摺の地図型の細見『絵入大畫圖』がある。この形式の細見は、享保年間(1716-36)の半ばまで作られていたようで、一枚の大きな紙に吉原の地図が描かれ、店のあるところに紋(屋印)、楼主、遊女の位と名前が記されている。小さくたためるようになっていて、袖の内に入れておけば、いつでも開いて見られるようになっていた。「遊女評判記」の巻末には遊女の名寄せが記されているものもあったが、これを独立させて見やすくしたものである。
だが、一枚摺の細見はいざ見ようというときに、いちいち大きく開かねばならなかった。これを解決したのが、ハンディータイプの本にすることであった。享保十二(1727)年、伊勢屋が板行した細見が本型の「吉原細見」のはじまりとされる。※横小本で仕立てられ、店を町名別に掲載、紋と楼主、遊女の位と名が記されているのは一枚摺と同じ。この形は江戸前期から発行されている「武鑑」の形式を参考にしていると思われる。

※横小本=半紙(縦一尺一寸[333ミリ]✕横八寸[243ミリ])を半分に折って作る本を「半紙本」といい、これをさらに半分に折って作る本を「小本」という。この小本は長辺を綴るが、横小本は短辺を綴る。大きさは小口を裁断して作るため、およそ縦三寸五分[106ミリ]✕横五寸[152ミリ]になる。サイズは「文庫本」とおよそ同じ。

「吉原細見」を掌握した鱗形屋孫兵衛


「吉原細見」といえば、鱗形屋(うろこがたや)のことは外せないだろう。
江戸時代前期、本の出版、販売を行なう書肆は京阪にあって、江戸に出店(でみせ 支店を出店すること)をしていたが、万治年間(1658-61)に須原屋茂兵衛(日本橋通一丁目)が開業した頃から江戸にも書肆が生まれる。鱗形屋(大伝馬町三丁目)も明暦年間(1655-58)頃に創業した地本問屋(地本=江戸で出版された本)。初代は三左衛門、のちは代々孫兵衛を称した。仮名草子や浄瑠璃本、赤本(子ども向けの草双紙)、黒本、青本(ともに婦女子向けの草双紙)などを出版した。鱗形屋孫兵衛は、べらぼうに出てきた吉原細見の版元・鱗形屋孫兵衛(演∶片岡愛之助)である。

この鱗形屋は、万治三年に「遊女評判記」のひとつ『吉原かがみ』を板行している。この『吉原かがみ』の中で、のちの「吉原細見」に引き継がれる画期的な発明がなされている。※「合印(あいじるし)」の導入である。
「合印」とは、遊女の名の上に「▲」をしるす。これがついている者は「格子」であると、ひと目で分かるようにした。
これは一枚摺の「吉原細見」でも転用され、いちいち位を書くことなく、小さいマスもスッキリ見やすくなっている。

※合印はこのあと吉原細見を発行する複数の版元に引き継がれるが、版元はオリジナリティを出して、まちまちの合印を使ったため、使用する客はその細見ごとに合印を覚えなければならず、見づらかったろう。

「吉原細見」が年二回刊行されるようになった享保年間から、鱗形屋は一貫して発行を続けていた。京都の書肆の出店・鶴屋喜右衛門(演∶風間俊介 の父にあたる)や山本九左衛門(山九)なども版元として「吉原細見」を開板して販売することのできる「板株(版権のようなもの)」を持っていたが、鶴屋は早い段階で見切りをつけ撤退、元文三(1738)年以降は鱗形屋孫兵衛と山本九左衛門(山九)のみが発行するようになった。そして宝暦八(1758)年を最後に山九が撤退、『べらぼう』の第2回の頃には鱗形屋が「吉原細見」を独占的に扱うまでになっていた。

「吉原細見」は半年に一度新しいものが発行されるため、※改(あらため)を置いて、内容の不備がないか確認を行った。ただ、店が丸ごと潰れたり、抱えた遊女が店を移ったり、亡くなったりしたことが分かっても、おいそれとは改定できなかった。なにせ新たな板を起こすには金ががかる。それなので、墨潰し(黒塗り)にして消す、あるいは板に刀を入れて削り落とすなどして対応していた。飛ぶように売れるのなら板を起こすにやぶさかでないが、吉原がそれほどに流行っておらず、吉原細見がじゃんじゃんと売れていないということの裏返しでもある。

※改所、改取次ともいう。各妓楼や見世、茶屋などを調べ、情報の追加、更新を行なうリサーチャー

蔦屋重三郎が鱗形屋孫兵衛のところで改として働き、『細見嗚呼御江戸』に名前を刻んだのが公に蔦重の名を確認できるはじめである。蔦重がその吉原細見に目をつけて、これを足掛かりに出版の世界に殴り込みをかけようとしたのは、またのちの話。

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