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江戸の出版。仲間とか、偽板とか〜大河ドラマ『べらぼう』より〜

『べらぼう』第6回は鱗形屋が「偽板」を作ったとして捕まり、危機に陥る物語。今回は、江戸の出版業界の「出版権」のお話です。



本屋仲間の始まり

中世において、同業者組合である「座」は、公家や寺社の保護を受け、その製造、販売の独占権を与えられるかわりに、利益の一部を上納するものであった。戦国時代、戦国大名が既得権益の打破を狙い、座を解体し、誰でも参入できるようにしたのが「楽座」。織田信長の施策としても知られているアレ。江戸初期も地域によって、座のような特権的な同業者の寄り合いを認めず、集まって申し合わせすることを禁止しており(明暦三[1657]年の江戸でのお触書)、複数挙げられた商売の中に「物之本屋(書物商)」も含まれていた。

江戸前期、本屋は「ある事情」から同業者組織を作りはじめる。貞享二(1685)年京都で本屋が寄り集まって講(こう)を、元禄十一(1698)年大坂の本屋24軒も「仲間」を作り、これに少し遅れて江戸においても「組」と呼ばれる同業者組織がいくつか作られている。
なぜ、講や組といった組織を作り、本屋が寄り集まったのか。「ある事情」は、大坂の「仲間」ができた経緯をみるとわかる。
元禄十一年、大坂の本屋24軒が揃って、大坂町奉行所に「重板類板の禁止」を定めるよう願い出た。互いの利益を守るため、公に重板類板を禁止してもらうのが目的であった。同年十一月、奉行所は本屋を集め「重板類板の禁止」を申し付ける。
このとき、本屋24軒が改めて申し合わせを行い、記した覚書には、

・重板類板の禁を守るために月番を設ける。
・互いの持っている重板・類板を見せ合い、問題が解決してから版行する。
・大坂以外で重板が発見されたら、元板を所持する本屋と相談する。
・版行予定の写本は、出来たら月番に見せ、月番はみんなに披露する。版行予告だけでは、出版権は得られない。
・自分が持っている板行物であっても、大阪の外で売りさばくときには相談すること。他の国へ手を廻して重板、類板しないこと。

とある。つまり、互いの出版権を守り、重板類板を防ぐために「仲間」を作ったようだ。

このあと江戸では、享保六(1721)年「諸商人諸職人組合仲間相定候付」という布令が出される。同業の商人、職人で組合(仲間)を作り、代表者を定め、これを幕府が公認する(これを御免株という)制度である。これにより江戸では「書物問屋仲間」が作られ、本屋(書物問屋)になるには「(仲間)株」を取得してこれに入ることとなる。同様に、正徳六(1716)年に京都で、享保八(1723)年に大坂で「本屋仲間」が出来ている(それ以前に「仲間」ができていたとも)。
大坂の「本屋仲間」は、「物の本」(仏教や儒学の書、史書、医薬書、辞書、古典などをさす)を扱う書物問屋だけでなく、草紙屋や貸本屋など「本を扱う商人」は皆ここに入ることができた。
ただ、この頃(『べらぼう』第六回 2/9放送分 安永四年頃)江戸で公認されたのは書物問屋で作る「書物問屋仲間」のみで、地本問屋(地本とは「江戸で出版された本」の意味。娯楽用の絵入り本=赤本、黒本、青本、黄表紙、合巻などを出版した本屋。)の「仲間」は認められていなかった(「書物問屋」と「地本問屋」の両方を商っている本屋もいた)。
『べらぼう』で「地本問屋の株を買いたい」という蔦重(演∶横浜流星)に、「あちら(地本問屋)には、株はないのでは。」と須原屋市兵衛(演∶里見浩太朗)が言っていたのは、地本問屋は同業者としての「仲間」はあるが、幕府公認の「仲間」組織はなく、仲間株は買うことができないという意味。蔦重の勘違いであったことになる。

出版許可への道

本屋が何か書籍を出そうとするとき、すぐに板木づくりを始められるわけではない。それには「許可」が必要であった。

まず出版しようとする者(開板人)は、原稿本を三部仕立て(種本、稿本という)、開板願書(版木を作り本を刷る願書)を添えて※本屋仲間の※行事のもとに提出する。
行事は一部を※町役人へ渡し、自らもこれを読み、すでに出版されている本を丸パクリした「重板」(偽板ともいう)や、一部内容を写したあるいは真似した「類板」でないかを調べる。
疑われる場合は、本来の出版権(板株=いたかぶ)を持つ本屋に回覧させて(これを廻本という)、アウトなら異議申し立てをする。これを「差構(さしがまえ)」という。行事は当事者に申し開きをさせてから、両者のあいだに入って事を穏便に納める。板株をもつ本屋が絶許であったり、パクリも甚だしければ取り下げさせるが、そうでもなければ金銭で解決させる、あるいはその本を相合板(あいあいばん=共同出版)にして、売上の一部を元々板株を持っていた本屋に支払うことで手打ちにする。

もう一つ、禁制に触れていないかを調べる。例えば、本屋に対する出版の禁制、享保七(1722)年の「書籍取締令」では、

・根拠不明の内容や、怪しげな説を含めて、本を製作することを禁ずる。
・好色本は風俗を乱すので、過去の出版物も徐々に絶版にする。
・人々の家系や出自、先祖のことなどについて、誤ったことを書き、出版することを禁止する。子孫から訴えがあれば、これを詮議する。
・どんな書物でも、新しく出版する場合は、作者と版元の実名を奥が気に記すこと。
・徳川家康のことはもちろん、徳川家に関することを版行したり、写本で出すことは今後禁止する。どうしても出すときは、奉行所に届け出ること。

の五項目が定められていたが、これらに抵触しないかを読み込んで判断を下す。
出版されてから問題が発覚し、お恐れながらと訴え出られると、問題となった本屋のみではなく、本屋仲間や板木屋にも類が及ぶ。ならば、問題が起きる前に、自主的に本屋仲間の内々で穏便に済ませてしまおうと、互いにチェックしていたわけである。

さて、仲間内で問題なしの判断が下ると、行事は※町役人を通して町奉行所に開板許可の申請と稿本を提出する。ここで稿本を改め(なかば形式的なもの)問題なしとされると出版の許可が下りる。
この許可を受けて、行事から「添章(そえしょう)」という出版許可および出版権登録証(のようなもの)が交付される。そして本屋仲間で所持する「割印帳」(出版許可の台帳)に、
・割印を受けた日付
・板行された日付
・書名
・著者名
・冊数
・丁数
・版元とその所在
・販売元
が記され、開板人は晴れて出版の準備に取りかかれるのだ。

これで終わりというわけではなく、本が出来たら、また行事に提出。先に出した種本と相違ないかを確認する。OKが出ると、町役人と奉行所に献本。仲間には本に使用した板木一枚につきいくらと決められた「白板分銀(しらいたぶぎん)」を支払う。一冊の本を出すために許可を得るにも、実に時間と手間がかかった。

※本屋仲間=享保七年、出版の取締りを強化したい幕府が指導に従い、三都の本屋が作った仲間組織。特に江戸では書物仲間という。本屋仲間は、所属する本屋が政治批判や風俗を乱すものを出版しないよう、自ら取締りをおこなった。
※行事=行司とも書く。本屋仲間から選ばれた代表者。
※町役人(まちやくにん)=江戸、大坂などの町奉行の支配下にあり、町内の様々な事務にあたった役人。武士階級ではなく町人から選ばれた。名主(なぬし)・月行事・町年寄・町役(ちょうやく)ともよばれた。

江戸の出版は版木が命

本屋仲間を通じ、許可を得て本を発行することで、版元は本屋仲間から出版する権利を保障される。許可証である添章と、元帳である割印帳に記されることによって、その本の「板株」(出版権)が発生したとみなされる。
取得した板株は永続的に持つことができ、また本屋の間で自由に売買することができた。ただ、勝手な販売を行われては困るので、本屋間で競りをおこなう市場を、仲間公認で作った。実体のない板株のかわりに、板木をもって売り買いをしたので「板木市」と呼ばれた。もっとも、板株を買った本屋には普通は板木も渡したので、板株≒板木ということになるだろうか。
板株の移転が行われると、行事はそのつど追認して帳面に旨を記し、常に権利の所在をはっきりさせた。

『べらぼう』の中で、鱗形屋は長年保管してきた板木を、明和の大火で焼失させた、と言っていた。そのような資料があるのかは分からないが、迷惑火事は鱗形屋のあった大伝馬町三丁目を焼いている。利益を生む大元であり、何代にも渡り受け継いだ財産の板木を失ったら、確かに経営は苦しくなるだろう。

実は、板株を取得していると、たとえ板木が摩耗して擦れなくなったとしても、割れや欠けなど破損して失われても、火事で焼けてしまっても、出版する権利は消滅せず残る。これを「焼け株」といい、新たに板木を起こすことも可能であった。ただし、何百という板木を再び起こすとなれば、大金の掛かることなので、言うほど簡単なことではなかった。 


大荒れ『節用集』

『節用集』は室町中期に成立した国語辞書。いろは順の分類と天地・時節・草木などの門を立て配列している。江戸時代には引きやすいように改編、語数や意味を増補したものを作り、書肆ごとに刊行した。『節用集』の需要は高く、よく売れたので鱗形屋ばかりではなく「重板」「偽板」が横行し、たびたび訴えられている。 

安永四(1775)年、大坂の書肆・柏原屋与左衛門と木屋伊兵衛の出した『早引節用集』を、江戸の書肆・丸屋源六と鱗形屋手代・藤八が『新増早引節用集』として出版、重板を犯した。柏原屋は大坂の本屋仲間に入っているため大坂での板株が認められていたが、これを江戸で売ろうとすれば、江戸の書肆に取次を頼み、江戸でも書物問屋仲間から「添章」を書いてもらうことで、売り広めることが出来た。「西村源六」はその取次であったとみられる。なので、大阪の書物は江戸では知りません、は通用しないのだ。
柏原屋はこれを訴え出たが、間に須原屋市兵衛が入り、使用した板木71枚、製本済みの2800冊を差し出すことで内済にした。
ところがこの2年後の安永六年、再び柏原屋の『早引節用集』を、今度は鱗形屋の使用人・徳兵衛が、そっくりそのまま出版するという重板を犯した。さすがに二度目となると許されず、徳兵衛は家財闕所(財産没収)・江戸十里四方追放、鱗形屋孫兵衛は過料二十貫文、手代の与兵衛と次兵衛、板木を作った板木屋市郎右衛門は手鎖となった。

今回は分かりにくい江戸の出版について、サラッと説明しようとしたら、なかなかの分量になってしまいました。
これではかえってややこしくなってしまったかしら?

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