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江戸の湯屋〜大河ドラマ『べらぼう』より〜

大河ドラマ『べらぼう』第三回は、吉原に客を呼び込むための工夫として、入銀本「一目千本 花すまひ」を作るために蔦重が奔走するお話。その中で、出来た本を湯屋に置いてもらうシーンがあった。吉原の客になりそうな人が集まる場所は床屋、居酒屋などいろいろあるが、その筆頭が湯屋であった。


江戸は風呂なしが当たり前

この時代の江戸市中では、内風呂は珍しく、大名や大身の旗本の屋敷をのぞき武家の邸宅でも、奉公人などを多く抱える商家でも、風呂はほぼ設えていなかった。
日々の煮炊きに比べても、湯槽いっぱいの湯を沸かす燃料費はバカにならない。経済的理由から設えなかった、というのが大きな理由としてあるが、江戸という町の事情もあったと思われる。

その一つが風呂に使える水がなかったというもの。江戸の町は台地と湿地帯を埋め立てて造られている。海も近く、井戸を掘っても出てくるのは塩水で、その層より深く掘らねば真水は得られなかった。しかし、江戸前期は海水の染み出る層より深く井戸を掘る技術がなかったため、一部の台地を除き江戸での生活用水は「水道」を利用することになる。
神田上水や玉川上水など、江戸前期には六つの上水から各町内へと配水される「水道」のシステムが整備された。だが、これらは飲むための水であって、洗濯など生活用水に使う分はともかく、湯船に溜める湯水として使えるほどの水量はなかった。
江戸後期、上方から井戸を深く掘る技術が伝わり、江戸の町でも井戸があちこちに掘られるようになると、享保七(1722)年、六つあった上水は神田・玉川両上水以外は廃止あるいは農業用水へ転換された。これはけして水資源が豊富になった、ということではない。上水が廃止された地域でも、井戸を掘ることで生活に必要な水は確保出来るようになったため、使用されなくなった上水を農業用水に転換、農業を活性化させる享保の改革の一環であった。ようは江戸市中で確保できた生活用水の分を他に配分しただけで、都市部で貴重であった水に、少しだけ余裕が出来たという程度だろう。

もう一つの理由は『べらぼう』の第一回でも描かれたように火事が多いことであった。数年に一度は町単位で広範に焼ける大火が起こっている。
享保二(1717)年に出された『公事方御定書(御定書百箇条)』では小間拾間(18.2メートル四方=331.24平方メートル)を超えて焼失した場合、火元の者は焼失面積にあわせて十日から三十日の押込(一室に籠もり、出入りを禁じる刑)となる。三町(三拾間四方、9917平方メートル)以上の被害が出ると、火元の者ばかりでなく、家主や地主、月行事(月番で町名主らを助けるため五人組から出された町役人)は三十日、五人組は二十日の押込に処せられた。
故に、火の取り扱いにはことさら神経をとがらせて、自らの家から火事を出さぬようにしていた。火事のリスクが高くなる風呂は、家に作らない、作りたくない、というのもあるだろう。

以上のような理由もあり、「家風呂」を作らず「風呂屋」や「湯屋」で入浴するようになったと考えられる。『守貞漫稿』の記述によれば、江戸中期の文化年間(1804-13)には600軒余りの「純粋な」湯屋が営業していたといわれる。

湯屋がそれだけあった、ということはそれだけ客も多かったということになる。囲われ者(お妾さん)の贅沢ぶりを「日髪日風呂(日湯)」(=毎日床屋に髪を結い直させ、毎日湯屋で湯につかる)と揶揄する言葉があるが、こと湯屋に関しては江戸っ子は毎日通うことも珍しくなかった。江戸はとにかく風が吹く。夏は海風、冬は颪(おろし)。舗装などしていないから土埃が舞う。一日晒されれば土まみれ。だから毎日湯屋に行って、土埃を洗い流してこざっぱりする、というわけだ。

ちなみに『べらぼう』に出てきた『一目千本 花すまひ』の序を書いた「紅塵陌人(こうじんひゃくじん)」なる人物、正体は不明だが、ペンネームの「紅塵」とは「街中の土埃」のことを指し、転じて「世俗に住む」という意味で使われる。「陌人」は「道人」と同じ意味で「世捨て人」。「世俗に住む世捨て人」という人を食ったペンネームなのだ。江戸の埃っぽさも織り込んでの命名かもしれない。

「いかがわしい」風呂屋

天正十九(1591)年に銭瓶橋(現在の東京都千代田区大手町と中央区日本橋本石町間、日本橋川に架かっていた橋)のたもとに伊勢与市という者が建てた「銭湯風呂」が江戸ではじめての銭湯とされる(『慶長見聞録』)。この頃の銭湯は「風呂」である。この「風呂」とは今でいう「サウナ」のようなもので混浴。男は褌、女は腰巻で蒸気を貯めた浴室に入り、汗をかくと湯女(浴客の世話をする者)に竹べらで垢を掻き落としてもらうシステムになっていた。
この風呂屋は「純粋な」入浴を目的としたものであったが、間もなくして湯女を私娼として、客に性的サービスを行わせる風呂屋というのが現れた。寛永年間(1624-44)に神田佐柄木町(現・神田須田町付近)の堀丹後守の屋敷前にあった数軒の風呂屋は、一階の風呂では客の垢を掻き、そのあと二階に移って隣に侍っては酒を勧め、夜伽もする湯女=私娼を置いていた。このような町風呂(銭湯)を「丹後殿前の風呂屋」略して「丹前風呂」と呼んだ。ここで働いていたのが、のちに吉原で一世を風靡する勝山太夫であった。

私娼を囲う「風呂屋」を問題視して、公儀は慶安五(1652)年、一軒の風呂屋で何十人も湯女を置くことを禁止し、一軒につき三人までと制限した。さらに明暦三(1657)年にこれらの風呂屋を廃止し、働いていた湯女を全て吉原へと移した。これが「散茶女郎」となっていく。また、いかがわしい風呂屋は純粋な風呂屋へと変化していった。

風呂屋から湯屋へ

江戸初期の風呂屋は、浴室に蒸気を充満させた「蒸風呂」が主流であった。湯女を置く風呂屋の多くは、この蒸風呂であったとされる。
この蒸風呂のあとに登場するのが「戸棚風呂」である。戸棚風呂とは浴室の湯気が逃げにくいように、出入り口に引き戸をつけたもので、その形が戸棚に似ているため「戸棚風呂」と呼ばれた。浴室に湯気を満たす「蒸風呂」との違いは、膝あたりまで下半身を浸す浅い浴槽を設けていること。足湯しながら蒸風呂に入る感覚だろうか。汗だくになって戸棚風呂から出ると、小さい浴槽(桶)にきれいな湯が沸かしてあるので、これを手桶で汲んで上がり湯をする。

この「戸棚風呂」のあと、肩まで浸かれる浴槽を持つ「湯屋」が現れるが、蒸風呂から水風呂(湯に浸かる風呂のこと)へ変化は、先に述べた深く井戸が掘れるようになったことも契機になっている。
湯屋は二階建てで、一階は脱衣場と洗い場、浴槽を設け、二階は男のみがいくらかの金銭を払うと上がることのできる休憩所になっていた。これは湯女がいた頃の風呂屋のスタイルをそのまま引き継いでいる。

また、混浴(これを「入れ込み」という)も江戸初期からの流れであった。ただ、混浴といっても、いろいろな形があったようで、完全に混浴という湯屋もあれば、脱衣場と洗い場は男女を分けて、浴槽のある浴室のみ混浴という湯屋もあったとされる。
この混浴については、『べらぼう』の第三回の時代はまだ行われていた。ところが寛政三(1791)年、老中松平定信の「寛政の改革」の一環として「男女入込禁止令」がでたことで混浴は禁止となる。理由は混浴などは風紀の乱すものであるから、男湯女湯の別を設けよ、というものであった。まぁ、だからといって「はい、左様でございます」と湯屋が従う訳もなく、定信が表舞台から退場すると、すぐに混浴が復活。このあとも水野忠邦の天保の改革で混浴禁止が出るものの止まず、結局明治に入ってもしばらく続いた。

さて、男性のみが利用できる二階の休憩所には何があったのかというと、畳敷きの広間に茶と菓子が用意され、碁盤や将棋盤、本などが置かれ、湯上がりにくつろぐスペースとなっていた。そしてもう一つ、床に半畳ほどの格子のはまった「窓」があったとされる。
これは浴室の真上に開けられた「のぞき窓」で、入浴客の姿を覗くことができるようになっていた。つまり、女性客の裸をのぞき見ることを、湯屋が「娯楽」として提供していたのである。
『べらぼう』でも、二階で『一目千本』を湯屋の主人に見せている後ろで、若い男が二人、覗き込んであれこれ談義している姿が映っていた。ちょっとしか映っていないところにも、実に細やかな考証と作り込みがなされている。

二階が男性のみ利用できる場所であったのは、湯屋の前身である湯女が性的サービスを行った「風呂屋」にあり、時代により変化しながらも、湯屋にはどこかしら「性的な」ものを残していた。蔦重が吉原に来そうな客を求めて湯屋に本を配ったのも、そういう意味があったのかもしれない。
銭湯一つとっても、今の感覚では信じられないことが、江戸時代の日常には潜んでいるものである。

※2025年1月30日 一部改稿

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