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ミニマリスト「丿貫」

今、ミニマリストであるとか、断捨離といった行為により、身の回りに物を増やさない生活をする人が増えていると聞く。「物を持たない」を裏返せば、物を持たずに生活ができる「便利さ」があるところに住んでいるとも言える。あるいは、物を持たないための努力と、何かを諦める選択をしているということだろうか。
私は持ち物がどんどん増える一方、一度手にしたものを手放すことができない質、packratなので、このような生活ができる人には憧れすらある。
茶の湯の世界は、いつ何時の茶会であってもよきものを設えられるように、道具を多く持たなければならないようなイメージがあるかもしれない。でも、そのイメージとは裏腹に、究極的に物を持たない茶人がいた。名を丿貫(へちかん)という。

「丿貫」とは何者か


宗易と同時代の茶人に丿貫(へちかん)という人があった。生まれについては京都・上京の商家「坂本屋」の出(『老人雑話』江村専斎 著)とも、伊勢の者(『柳庵随筆』栗原信充 著)ともいわれる。『老人雑話』には「一渓道三の姪婿なり(曲直瀬道三の姪の婿である)」とあり、如夢観と号したが、のちに「人に及ばず」というところから人の字の偏である「丿」を取り、「丿貫(観)」と名乗ったという。武野紹鷗の門に入り茶の湯を学んだ数寄者で、順からすると宗易の兄弟子にあたる。京都山科に庵を結び、名物を持たず、家財道具も最小限、手取釜一つで茶の湯を沸かし、また粥など煮炊きして客に饗した。茶の湯においても日々の生活においても、華美なところを排し、無駄な部分を取り除き、根本たる「さび」の真髄を求めつづけた。ゆえに彼のことを「茶仙」などと称する人もいる。今なら「究極のミニマリスト」であったといえる。


「ひょうげ」も真剣


千宗易(利休)が丿貫の庵を訪ねたおり、露地に設えられた落とし穴にはまり、風呂を馳走になった話はよく知られている。これは一種の「剽げ(ひょうげ=おどけたこと、ふざけ)」であり、ただ相手に風呂を饗するのではなく、前段階でわざわざ落とし穴を作り、これを「饗する」ことで「風呂に入らざるをえない状況」にして一連のもてなしの「ストーリー」を作りあげているのだ。だが、宗易もこれを他の茶人から聞き及んでいて、落とし穴があることは知っていた。それでも、宗易は丿貫の「ストーリー」を楽しむために、分かっていてもはまってみせた、というのだ。土埃の立った街中より訪ね来た人を、落とし穴に落とし、風呂に入れて、小ざっぱりとした着物を着せて飯と茶を饗する。ひょうげながら互いに相手を思って、真剣にもてなし、饗されるいるのである。


「さび」を体現する


天正15年に秀吉が開いた世にいう「北野大茶会」で丿貫は、一間半(約2.7m)の朱傘を立て、その周りに葦垣を廻らした茶席を設け、件の手取釜で茶を点て振る舞った。この趣向は秀吉に大いに気に入られ、諸役免除のお墨付きを貰った、という。
(『茶話指月集』久須美疎安 著)
秀吉は朱塗りの派手な大傘を気に入ったのかもしれないが、丿貫とすれば、雨露しのぐ傘一本に、釜一つ、茶碗一つあればよいと、「茶を点てて飲む」の究極やってみせたわけだ。
のちに江岑宗左は『逢源斎書』の中で、

一、茶之湯根本、さひたを本ニいたし候、但大事之所也、さひたるがへちニ似申候、但各別之事也、心持肝要也

さびは大事だとしながらも、さびた茶の湯をしようとすれば「へち」に似てしまう。この「へち」は丿貫のことで、「さび」は心持ちが肝要であって、作為的な「さび」はよろしくないとしている。
丿貫に作為があったかではなく、「さび」の基準として丿貫の存在があるから、それを真似たり、越えようとするやり過ぎた、作為のあるさびに走る者を戒めているのだ。

「丿貫の魁」一路庵禅海

「綺麗な丿貫」粟田口善法


この丿貫に似た逸話をもつ人物が何人かいる。有名なところでは、一路庵禅海と粟田口善法である。
一路庵禅海は室町期の隠者にして茶人。村田珠光の弟子とされる。一休宗純と交友があり、仁和寺の門主を務めたのち和泉の堺への居を移した。一路庵と号して庵を結び、手取釜一つで煮炊きをし、またこれを洗って湯を沸かして茶を点てた。畚(いしみ・ふご=竹籠の一種)を松の枝に掛け、ここに施捨された食物で命を繋いだが、子どもたちがふざけて馬糞や馬わらじを入れたことから、我が糧尽きたりと断食をして亡くなったという。

粟田口善法(善輔、善浦〈ぜんぽ〉)は『山上宗二記』や『近世畸人伝』にも紹介されている。茶の湯の師は村田珠光で、

カンナベ一ツニシテ一世ノ間、食ヲモ茶湯ヲモスル也。身上楽シム胸キレイナル者トテ、珠光褒美候
(『山上宗二記』)

つまり、燗鍋(手取釜)一つで食事も茶の湯もまかなう、そんな暮らしむきを楽しむ心の綺麗なものであると、珠光が褒めた、というのだ。
その話を聞き、善法に関心を持った豊臣秀吉が燗鍋を欲して召し上げようとしたが、善法はこれを良しとせず燗鍋を砕いてしまった。さすがの秀吉もやり過ぎたと後悔して、改めて鋳物師の辻越後(辻越後守家種)に命じて、善法の燗鍋の写しを作らせた。

【善法の場合、村田珠光(1422 - 1502)と豊臣秀吉(1537 - 1598)との間にかなり時代の開きがあるため、善法の逸話は創作、あるいは善法自身が創作なのではないか、という説もある。】

禅海と善法、そして丿貫の三人の共通点は、手取釜(燗鍋)で煮炊きもし、また茶を点てたこと。そして、このような狂歌を自虐的に詠んだとされている。

手とり釜おのれは口がさし出たり雑水たくと人にかたるな
〈手取釜は[やかんのような形をしていて]注ぎ口が差し出てているので[手取釜で]雑炊を炊くと他人に差しで口をするな)

江岑宗左の「さひたるがへちニ似申候」は、さびを求めて行き着く先は結句「丿貫」のようになる、禅海や善法という先達があっても、丿貫がその域を超えられなかったと同じ、ということなのかもしれない。
また、わび茶を復興させた「乞食宗旦」こと千宗旦は、禅海や善法のことを評して、

「……隠逸の異人にて、杓子にて粉炭をすくひ、炉中に提梁釜をかけ、土居に円座をしき、主客の応対もなく、只茶を喫し楽しむ。かやうのものは只礼もなく雅もなく、変人にて習ふべからず……」
(『本阿弥行状記』本阿弥光甫 著)

と、彼らのわび数寄を評価していない。名は上がらなかったが、似たようなわび数寄を好んだ丿貫もまた宗旦の評価は辛いものだったろう。

退きものきたり鹿児島に


丿貫は北野大茶会の一件で秀吉から一目置かれ、お茶頭に望まれたが、これを固辞すると、以前と同じように山崎に籠もり、己の好む茶の湯を楽しんだ。そののち馬に茶道具を負わせ、諸国を徘徊する。馬が亡くなるとこの皮を剥ぎ、袋を作らせるとこれに茶道具を詰め、自らが背負ってまた徘徊した。そうこうしているうちに、九州へ渡り、筑紫、そして薩摩に下り、この地で没したとされる。丿貫はその死を前に、自らの書き残したもの、職人に作らせたり自作した道具などを買い戻すなどして集め、全て破却したという。世に己の存在があったことすら消し去ろうとしたのだ。
亡くなったとき、持ち物といえば件の皮袋ばかり。人々は塚を築くと、これを骸とともに納め、てっぺんに目印の石を据えた。のちにこの石は「丿桓石」と呼ばれるようになる。


生きては物に執着なく、死を前に物を整理し残さず、死してなお物にこだわらず。我が道を見つけ、楽しみ、突き進む。丿貫には憧れど、執着も、所有欲も、こだわりもどれも捨てられない私には、一生到達できぬ極北の存在なのだ。

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