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極楽へ行く
落語『お血脈』
信州信濃の善光寺には「御血脈の御印」なるものがあり、幾ばくかのお布施を納めると僧侶が額に御印を押し当ててくれる。これを頂くと、たちまち罪障消滅して誰でも極楽往生できる、というなんとも都合のよい、ありがたい御印である。
落語『お血脈』に出てくる御印。実を言うと「御血脈の御印」という名ではないし、この御印自体「お血脈」ではない。
この御印は、善光寺の御本尊の分身である三つの宝印「御印文」のことで、毎年正月の七日から十五日の間、僧侶が参拝者の頭にこれを戴かせる、すると諸願成就、極楽往生が約束されるのだ。これを「御印文頂戴」といい、盗んだ御印をおしいただいた五右衛門が極楽往生してしまう『お血脈』のオチは、まさに「セルフ御印文頂戴」なのである。
そうすると、題名になった「お血脈」とは何なのだろうか?
まずは、お血脈について探ることにしよう。
お血脈とは何か
そもそも血脈とは、教えが師から弟子に伝えられること(これを「師資相承」という)をいう。それが、あたかも親子が血を通じて繋がり代々受け継がれることになぞらえて、師弟により血(教え)の脈が繋がることを「血脈」といった。また、その師弟の系譜を書き記し、仏弟子となったことを証明するものを「血脈」とよぶ。のちに宗派や寺院ごとに「血脈」を記し、護符のように仕立てたものを、参詣者に授与するようになったのがいわゆる「お血脈」である。有名なのは信州善光寺であるが、他の寺院でも授与されている。
善光寺境内に「大勧進」という寺院がある。正式には「善光寺本坊大勧進」といい、天台宗の大本山として善光寺の寺務を執行し、大勧進の住職(貫主)が善光寺の住職を兼ねている。この善光寺大勧進で「お血脈」は授与されている。
正方形に折り畳まれた紙の表には
信州善光寺
融通念佛血脈譜
別當大勸進
と記され、善光寺の朱印が捺される。この紙をひろげると中には、釈迦牟尼仏(お釈迦様)から迦葉尊者、阿難尊者と歴代の仏弟子、また阿弥陀如来からはじまり、融通念仏宗を開いた聖應大師良忍、その教えを継ぐ代々の大勧進住職が名を連ね、その末に「浄業者」と記されている。つまりこの護符を授かった者(浄業者)は仏の弟子となり、「血脈」に連なった、という意味である。さらに、死に際しては極楽往生が約束される「特典」がつく。むしろ参詣者が求めるのは、仏弟子より、この極楽往生の方なのだろう。
「お血脈」と「御印文」は同じ御利益があり、いずれも善光寺で授かることが出来るということで、落語『お血脈』では「御血脈の御印」という合体した強力な架空アイテムを作り出したようだ。
(落語なのであえて「架空アイテム」にしたという可能性もある)
さて、この善光寺「お血脈」の誕生は比較的新しく、江戸時代に起こった浅間山の「天明大噴火」(天明三年=1783年)がきっかけであるとされる。
天明の大噴火
天明三年四月九日、信濃国と上野国の国境にある浅間山が噴火。この活動は断続的に都合90日あまり続いた。そのなかでも同年七月七日夜半に起こった噴火は、この災害で最大といわれ、噴出した溶岩流が山の北麓を駆け下った。現在も南北方向約5.8Km、東西方向約2Kmにわたり冷え固まった溶岩が山麓を覆い、被害の凄まじさを目のあたりにできる(その奇景から「鬼押出し」とよばれている)。
話を戻すと、翌日の七月八日、噴火による火砕流と岩屑なだれが浅間山の北に位置する上野国鎌原村(現・群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原)を襲った。山麓を駆け下る早さは尋常ではなく、この流れからきることができたのはごく一部であった。当時の村の人口570名のうち死者は477名、村内の民家93軒全てが倒壊、田畑の九割以上が耕作不能となった。誠に救いのない状況である。
「お血脈」の生みの親 等順
間もなくして、各地から被災地へ救援の手が差し伸べられた。被災者のために雨露をしのぐ小屋を作り、あるいは自らの家に招き、食糧や着るものを与えた。その支援者のなかに(当時の)善光寺別当大勧進住職 等順大僧正がいた。等順は惨状を目の当たりにして心を痛め、三十日に及ぶ念仏供養を被災者と共におこない、調達した白米と金銭を三千人に施した。そして、この人たちに今 必要なのは心の救済だと考え、融通念仏宗(一人往生すれば衆人往生し、念仏を唱えれば、自他ともに融通して等しく利益を成就すると説く宗派)の教えに基づき、「お血脈」(融通念仏血脈譜)を新たに作成、この御守を授与された者は、どんな宗教宗派を信仰していようとも極楽往生できるとして被災者に与えた。
こののち浅間の大噴火が引き金となり起こった「天明の大飢饉」の時にも、等順は善光寺が蓄えていた蔵米三千石を全て放出する一方、四年の間 全国を行脚、念仏供養を行い、被災者にお血脈を授与してまわった。言い伝えによれば、等順が生涯に授与したお血脈は約180万枚だったともされる。
お血脈は、誰を恨むことも責めることもできない天災に、肉親や親戚、知人を奪われ、家屋田畑を失った人々に、衣食を与えるだけでは足りない「心の支え」として誕生した。このことが「信州信濃の善光寺」を全国に広めることとなり、宗教宗派を問わないで「極楽往生」できると説いたことで、「遠くとも一度は参れ善光寺」と言われるほど、善男善女が途切れることなく参詣に訪れる有名な寺院となったのだ。