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夕立

路地に響く小気味よい下駄音で、照は主人の帰りを察した。
「先生、帰って参りましたので、うちのをすぐこちらへやります。」
言い終わらぬうちに、
「けえったよぉう。」
の声が響いた。
「え、誰が来てるって。せんせぇ?先生じゃわかりゃしないよ。何、鏡さんが、それ早く云いねぇ。」
照の内緒話は主人の声でまる聞こえであった。
「こりゃぁ鏡さん、いらっしゃい。来られるならそうと、先に行ってくださりゃ良かったものを。」
「いえね、この近くをちょいと通りかかったもんですからねぇ。ついでといっちゃ難ですが、建ちゃんのご尊顔を拝し奉ろうと寄らせていただきました。」
「そうですかい。どうもこっちゃ鏡さんのご来訪となるとドキッときまさぁ。」
「まぁ、あたしゃ心の臓に悪うござんすか。」
「ええ、たんと悪うござんす。」
「それじゃ来るのを控えなけりゃなりませんね。」
ふいっと横を向いた客に主人は慌てて言葉を継げた。
「いえ、そりゃ言葉のあやで。誰だって闇夜からポカリと一つ喰らったら驚きましょう。先に声掛けてもらやぁ、さして驚きゃしませんが。」
ものには言い様がある。主人のほうも変な言い訳をしてしまったと思って、客の顔を覗うと、肩がかす かに震えている。
「くっ、くくく。建ちゃんは生真面目でござんすねぇ。ホントに怒っちゃいませんよ。それにしてもあたしゃ闇夜の暴漢と一緒でござんすか。く、くく。」
畳を叩いて笑う客に内心ほっとした。
「あは、あは。おかしいねぇ、建ちゃんは。あ、そうそう。これはお土産。」
「こりゃ、どうも。オヤ、銀座帰りですか。おーい。照。鏡さんからお土産戴いたぞ。」
と、見えもしないのに木村屋の袋を廊下に向かって振ってみせた。

「そうだ。鏡さん今日はゆっくり出来ますかい。出来るなら一杯やっていきませんか。この暑さだ。もうちっとお天道様が傾ぶいてから帰ったほうがようござんすよ。」
「そうだねぇ、これで帰って目ぇ廻したんじゃ、かないませんからねぇ。」
「鏡さんは弱いですから。」
「弱いですかい。」
「ええ、このあいだなんぞ、白木屋のエレベーターで目廻したってぇじゃありませんか。」
照れくさそうにうつむいて、
「君方はそう仰るが、アレは考えただけでも怖いもんですよ。一間もない箱に乗って上ぇ行ったり下ぁ行っ たり。吊ってる紐が切れたらどうしようと思いませんか。」
「そんなに簡単にぁ切れやしませんよ。」
「そうかねぇ。」
団扇に手を伸ばしたのを見計らい、
「おーい。照。酒の支度だ。角の魚屋行ってこい。今日はいいヒラメが出てた。まだ動いてたからアレをなぁ、家で捌きな。むこうさんでおろしてもらおうなんて横着するんじゃないぞ。」
と奥に声を掛けた。はいはい、それじゃお先に、と照は用意よくお銚子を二本ばかりつけてもってきた。

「鏡さんどうぞ一つ。」
そうですかい、客は盃を手にすると懐から出した脱脂綿で綺麗に拭きだした。
「お内儀、気を悪くしないでくださいよ。これはちょっとしたまじないなんですから。」
「さあ。」
主人は銚子の首をちょいとつまんで注ぐとあわただしくおいた。
「うん。いい燗がついてますよ。」
「じゃ、あっしはこっちで。」
「そりゃ冷やですかい。」
「ええ。」
「なんだか気を使わせますねぇ。」
「いや、これがお定まりなんですから。」
客は好みは夏であろうと燗酒、それも尋常では無い燗のつけ方で、煮え燗を通り越して煮切った酒しか飲まない。文壇曰く『泉燗』。これも子供の頃の病からくる細菌恐怖症ゆえのことであった。
「それにしてもこの前のあの絵は上出来でござんしたね。」
「また『明石町』ですかい。」
主人のほうが首をすくめる。
「褒められているのに嫌な顔なさんな。あたしゃあの傑作に一役買えたと思うとうれしくて仕方ないんだよ。」
もぞもぞと懐を探り出したのを見て、
「こりゃ、気づきませんで。」
と煙草盆を押しやった。
「はばかりさま。」
ちょいと葉を詰める。吸い口の端から紫煙があがるとすっと一口飲んで、おもむろにキャップを嵌め た。慣れているとはいえ、その早さといったら無い。
「時に、建ちゃん。」
「へぇ。」
「江木とは何でもないんでしょうね。」
思わず含んだ酒がこぼれた。
「ご、ご冗談を。」
「アレだけの大出来、只事ではありますまい。」
プカリと吹かした煙を虚空に眺めて、一つ叩いた。 「鏡さん。」
「ほら、また生真面目が出てござんすよ。あぁたの、建ちゃんの仕事ですよ。信用しないでいかがします。 そら、去年の『注文帖』だって良い出来でしたよ。」
「取って付けたようなお褒め、ありがとうございます。」
マァマァ仲のお宜しいことで、と照が身の透けるようなヒラメを差し出した。
「これは御馳走だ。実を言うとネ、建ちゃんの家ぐらいしか、こういうものを出されても手は付けないんでござんすよ。奥方の手づからだ、これほど安心なことは無い。ねぇ。」
「へぇ、それは有難いことで。」
主人の言うことなどうわの空で、口に運んだヒラメを泉燗でぐっと押し流し、はは、美味い、と笑って見せた。

開け放ちの客間にすっと風が流れる。
「こりゃ、降りますねえ。」
「夕立ですかい、そりゃ大変だ。早く帰らないと。」
「もう遅いみたいですよ。」
こじんまりとした庭の南天が、一つお辞儀をした。また一つ。濡れ縁に一粒雨粒がこぼれた途端に、板 塀が黒く染まり、濛々と水煙が上がった。
「建ちゃんは、幽霊を描いた事がありましたねぇ。」
「圓朝翁の年忌のときに一つ。」
「見たことはありますか。」
「何をです。」
客は軒の雨垂れを眺めて、
「あたしみたいに幽霊妖怪の類を書いてばかりいると、」
盃をぐっと開けて、
「感じるようになるんですよ。」
と、主人のほうに向き直った。
「この間っからね、『鏡花、鏡花』って誰かが呼ぶんですよ。どこかで聞いたことのある声なんでネ、ふっと振り返ると誰もいない。これは暑気にやられたかと思っていたんですがね。声の主がやっと分かったんです。」
「誰なんです。」
「先生ですよ。」
「先生って、紅葉先生ですか。」
ウン、と軽くうなずいた。
「先生は未だにあたしがすずと一緒なのがお気に召さないんだろう。だから死んでまであたしに付きまとって。」
庭に目を向けると、
「そのうち、眉にモミジでも貼って出てくるんじゃないかって。」
主人は客が本気なのか嘘なのか分からなくなってきていた。
「ここは木曽の山奥ではないから大丈夫ですよ。」 「ふふ、そうですね。」
そういうとまた軒の雨垂れをながめはじめた。
「鏡さん。」
「なんです。」
このまま消え入ってしまいそうに思えて、じっとその姿を見つめた。四半世紀も前、新進気鋭の小説家と画家が出会った。白いものが混じり始めたが、眼鏡の下の鋭い瞳はその頃のままであった。主人はいつかこの日を、いや、初めてあった日のことを残そうと思った。
「いや、なんでもありません。それにしても今年はよく降りまさぁ。」
もう東の空は光が射して、金青色の空が切り抜かれていた。

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