青鷺づくし

夕風や水青鷺の脛をうつ 蕪村
夕嵐青鷺吹き去って高楼に灯 虚子
青鷺のあやしく鳴いて光秀忌 小鼓子


青鷺は日本で見られる水鳥の中では最大ともいわれ、全長で1メートルほどある。腹と首は白いが、背は灰青色、翼と後頭部の長く伸びた飾り羽は青暗色と名の通り青い。水辺には住んでいるが、巣は樹上に掛ける。縁起の良い絵として「松に鶴」と取り合わされるが、鶴のほとんどの種類が樹上に宿ることはなく、昔の人が青鷺かコウノトリを見間違えたものといわれている。鶴のように首をまっすぐに伸ば さずS字に構えるのが特徴で、日本画の中には「巣篭もりする鶴」などにこの特徴を持つ絵もあるから、 誤認はかなりあったのかもしれない。温暖な地方では留鳥化しているものもあるらしいが、基本的には漂鳥である。そうでなくては季語にはなれない。声は野太いし、大型のためか白鷺などに比べ武骨さがある。分布は広く、ユーラシアからアフリカ大陸にかけて生息する。


青鷺は日本ではかなりポピュラーな食材で、戦国時代から江戸にかけて、貴人への献上品として贈られる事もあったくらいで、夏の青鷺、冬の鶴は高級品であった。 ところが、ユダヤ教ではこれを「不浄な食物」といって食べなかったという。
『旧約聖書 申命記 第14 章』に

清い鳥はすべて食べてよい
しかし次の鳥は食べてはならない
禿鷲、髭鷲、黒禿鷲、 赤鳶、隼、鳶の類、 烏の類、 鷲みみずく、小みみずく、虎斑ずく、鷹の類、 梟、大木葉ずく、小金目梟、 木葉ずく、みさご、魚みみずく、こうのとり、青鷺の類、八つ頭、こうもり

とあり、同じく『レビ記』にも青鷺は汚れたものであるから食べてはならないと書いている。
またところ変わってインド、ヒンズー教でも青鷺は食べてはならないものとされていた。ヒンズー教の基本経典『マヌ法典』に定めれれている「食べてはならない物」の一つとして挙げられている。ヒンズー教の場合、食してはならないという理由には、

・「神の食物」あるいは「清浄なものであるから」
・「不浄であるから」

という理由のふたつがあったが、青鷺はやはりユダヤ教のときと同じ「不浄である」という理由であった。なぜ不浄なのか。その理由はこの条文で理解が出来る。

・目を伏せ、性格が残酷で、自分の目的の成功のみを願い、不誠実で、偽りの謙譲を示すブラーフマナ(聖職者)は、「鷺のように振舞う者」である。
・鷺のように振る舞い、あるいは猫の特徴を持つブラーフマナは、その罪深さゆえ一寸闇地獄に堕ちる。

つまり、鷺の振る舞いが、人間が卑屈な態度を取ったときや、へつらいを示したりするときの形によく似ているからという、なんとも即物的な理由なのである。


青鷺はどうもその大きさからか、奇怪なものとして扱われるようだ。青鷺と呼ばれるようになる室町以 前、この鳥は「みと鷺」と呼ばれていた。「みと」とは「みどり」の詰まったものという説と、「水門(みと)」つまり港の意という説がある。泉鏡花も短編『鷺の灯』で、こんな風にその姿を描いている。

「えゝ、庄屋殿の森から大池へかけまして、青鷺の巣でござりまして、何時太(いつもいか)いこと居りますのが、又此の五月雨頃は旬でござりますわ。 や、いづれも名代(なだい)な奴等、小溝端で蚯蚓(みみず)を突いて、村の小兒に驚かされたり、川下で鮒を狙うて、船を見て遁出(にけだ)すやうな甘いのぢやござりませぬ。 福井の市(まち)へ伸して出て、人死のある棟の上でぎやツと啼いたり、縁切の背戸でくわツと喚いたり、三国港へ飛び歩いて帆柱を搖つたり、したゝかなことをはだかすでござります。」

以下長々と描写をしているのだが、「死者の出た家の棟の上で鳴く」姿は西洋でも語られる、青鷺の共 通した特徴のようだ。 題名の『鷺の灯』は妖怪画の泰斗・鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にある「青鷺火」に由来していると思われる。絵の添書きに

青鷺の年を経しは、夜飛ぶときはかならず其羽光るもの也
目の光に映じ、嘴とがりてすさまじきと也

同様の伝承は「五位鷺」にもあり、竹原春泉の『絵本百物語』には「五位の光」として、

此鷺五位のくらゐをさずかりし故にや夜は光ありてあたりを照せり

と見える。光るのは近衛天皇が与えた「五位」の威光であるという。
さらに妖怪の「うぶめ」もこの青鷺であるという。

姑獲鳥又夜行遊女 天帝少女 鬼鳥といひ、
青鷺といえるもの、その居る處必づ燐火ありといはるる
即ち 小雨闇夜に青鷺の光るなり
龍燈の松にかかるもこの鳥なり

龍燈とは、夜に水平線上に浮かぶ無数の燐火のことで、竜神が仏に捧げる灯と言われていた。有明海 の「不知火」現象を、越後や北陸ではこう呼ばれるようだ。鈴木牧之の『北越雪譜 二編巻之二』で「龍 燈」という項があり、古老語りに龍燈は、

形(かた)ち鳥のやうに見えて光りは咽の下より放つやうなり。

とあり、これを撃ち落そうとした若者に、

あなもつたいなし、此龍燈は竜神より薬師如来へささげ玉ふなり。罰当たりめ

と叱った声を聴いて驚き飛び去ったという。何とは語らないものの、暗に青鷺の話を匂わす構成になっている。
別の言い伝えでは、鷺の息は夜になると青白く光ると言う。確かにそれは不気味な光景とうつる。ちなみに、うぶめは出産で亡くなった女のなる鳥で、赤子をさらう妖怪とおそれられた。こうのとりが子供を運ぶのに比べ、青鷺のイメージの悪いこと。


青鷺は「死」と「火」に絡められ語られることが多いようだ。そういえば、不死鳥、フェニックスのモデルはこの青鷺であると言われる。不死鳥というと今日では猛禽類のイメージが強いが、本来は青鷺のような大型の水鳥が原型となっている。発祥のエジプトでは、青鷺は太陽神ラーのバー(魂)と考えられていた。 太陽は四季によって隆盛と衰微を繰り返す。この青鷺は太陽の隆盛と共に南よりナイル河畔に姿をあらわし、衰微と共に南へと帰る。朝の訪れと共に空へ舞い上がり、夜の帳と共に巣篭もる。このことが、青鷺が太陽と結び付けられた理由である。 古代エジプトでは「再生」を信じていた。それは仏教の「輪廻転生」とは違い、死んだものが再び同じ肉体に戻ってくるといった考えで、ゆえに彼らはミイラを作り、いつバーが戻ってきてもよいように「朽ち果てない肉体」を準備をしていたのだ。もともとの「不死鳥」は死なないのではなく、再生を繰り返す、つまり生と死を無限に繰り返す「再生鳥」であったはずである。ではそれがなぜ青鷺なのか。 青鷺は渡り鳥であるから年ごとに現れては消えるを繰り返す。太陽が毎日のように現れては消えるという「再生」を繰り返しているように、青鷺は生と死を行き来する「再生」のシンボルとなった。俗にいう『死者の書』に青鷺は「神となった死者」をあらわすものとしてよく描かれた。 古代エジプトの神話の中で「死と再生」の象徴といえば、オシリスとホルスの二柱であろう。 オシリスは弟セトの恨みを買い、騙し打ちに遭い体をばらばらに切り刻まれて捨てられる。妹であり妻であるイシスは夫の無残な遺体を拾い集め、これを復元、生き返らせることに成功する。ところがセトは再びオシリスを殺し、切り刻むと今度は川に捨てた。イシスはまた拾い集めたが、一部分だけが欠損していたために再生できず、オシリスは冥界の王として転生をする。セトは神々に兄に代わり、エジプト全土を所望するが、オシリスの子ホルスにより放伐されてしまう。これよりエジプトの王はホルスに繋がるものが継承することとなる。 死を司る神オシリス。それはナイル川であり(オシリスが弟セトに切り裂かれて流された川でもある)、水であり、「夜の太陽」である。そしてその子、天空神ホルス。天であると同時に、火であり、「昼の太陽」である。オシリスは何度となく再生を繰り返し、冥王となっては我が子ホルスと交代で昼と夜を司った。このホルスがのちに太陽神ラーと融合したことにより、バーと見られていた青鷺は「再生」の象徴となっていったのである。 なお、余計なことであるが、不死鳥は500年に一度炎に焼かれて灰の中から蘇るとされるが、他の説では1460年に一度であるとも言われる。この1460年とは、天文学でいう「天狼星(シリウス)周期」のことらし い。エジプト暦の元旦に東の空に現れるシリウスが、再び元旦の同じ時刻に東の空の同位置に現れる 周期である。古代エジプト人はこれも永いスパンでの「再生」と見たのであろう。


楼蘭で発見された少女のミイラが話題になったことがあった。その棺の中に青鷺の羽が添えられてい たのは、何かの偶然なのだろうか。


日本の怪談中興の祖、小泉八雲は珍しい家紋をつけていたという。もともと家紋というのは日本以外で は西洋の王侯貴族のエンブレム、インディオのトーテムぐらいしか知られてはいない。八雲ことラフカディ オ・ハーンはエンブレムを持つほどの家柄ではなかったから、つけていた家紋は日本に来てからのものである。ではどんな紋を付けていたか。
「青鷺紋」
でもなんでそんな変わった紋なのか。諸説あるが、その一つは自分の名前を「ハーン」ではなく「ヘルン」と署名していた。このヘルンは青鷺を表す「ヘロン」に音が近かったので、洒落て「青鷺紋」を作ったというが、真偽は定かではない。


「青鷺が暁に羽ばたきながら鳴くと雨になる。」
という言い伝えがあるそうだ。山下達郎氏の『ヘロン』のなかで、

鳴かないでヘロン
雨を呼ばないで

と歌うのはこのことらしい。

(以前に書いた「青鷺尽くし」を改稿、再録いたしました。)

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