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「朝顔」の死から見る吉原〜大河ドラマ『べらぼう』より〜
2025年1月5日、大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』がスタートした。
大火から新吉原へ
物語は明和九(1772)年二月二十九日、目黒行人坂の大円寺より出火し、江戸の三分の一を焼き尽くした「明和の大火」からはじまる。江戸の町は数年に一度、複数の町を焼き尽くす大規模火災が起こっているが、その中でも、
明暦三(1657)年 明暦の大火(振袖火事)
明和九(1772)年 明和の大火(目黒行人坂の大火)
文化三(1806)年 文化の大火(芝車坂の火事)
の三つの火災は、「江戸三大大火」と称される。
明暦の大火の頃、吉原は日本橋人形町あたりにあったが(旧吉原)、この大火で遊郭も火の海となった。四方を高い塀と堀に囲われ、出入り口が橋一本のみの遊郭では逃げることができず、遊女や奉公人があまた焼死した。
出来たころは葦の原にぽつんと立っていた遊郭も、この頃には大名屋敷や商家が建ち並ぶ江戸の中心地。以前から移転の話が出ていたが、この大火で焼き尽くされたのを機に、江戸のはずれへの移転がはじまる。候補地は本所か浅草とされていたが、浅草寺裏の田んぼの広がる土地に決定した。これがいわゆる新吉原で、歌舞伎や落語などの舞台となるのは主にこちらの吉原となる。ここで主人公・蔦屋重三郎は生まれ育った。
妓楼「松葉屋」
吉原は大門をくぐると六間(約11m)幅の通りが貫かれ、両側に引手茶屋などが並ぶ「仲の町」、通の右側は手前(大門近く)から江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目。左側も手前から伏見町、江戸町二丁目、角町、京町二丁目。この仲の町から離れたお歯黒溝沿いに右側が浄念河岸と西念河岸、左側が浄念河岸と羅生門河岸となっていた。
件の松葉屋は、吉原の大門近くの江戸町一丁目、木戸際にあった大見世(最も格の高い妓楼)で、楼主は代々半左衛門(演∶正名僕蔵)を名乗った。入口を入ると大見世の別名でもある大籬(おおまがき、総籬ともいう。天井まで達する朱塗りの細い格子)が設けられた豪奢な建物に、遊女・奉公人を百人余り抱えていた。
太夫・格子の消滅と散茶の台頭
吉原といって、ややこしいのは遊女の位。吉原では遊女の位が時代によって大きく変化するが、まず『べらぼう』第一回の時代でみていく。ただし、これは高位の遊女の話で、下級の遊女については別段に述べることとする。
旧吉原時代からあった遊女の最高位「太夫」は、宝暦年間(1751-64)に玉屋山三郎の抱えていた遊女「花紫」を最後に吉原から消え、同じ頃に太夫に次ぐ位の「格子」もいなくなり、以後は中級クラスの「散茶」が上位の遊女として扱われるようになった。
散茶
新吉原へ移転する前後からはじまった遊女の位である。移転間もなくの寛文年間(1661-73)当時、「風呂屋」を名乗りながら私娼(湯女)を囲い、客に性的サービスを行なう店が江戸市中に現れ、どんどんと数を増やしていた。町奉行所は吉原との話し合いにより、大規模な「けいどう(警動=手入れ)」を行い、違法な風呂屋や私娼窟から私娼五百人余りを捕まえ、吉原の妓楼に新たに抱えさせた。
これが「散茶(女郎)」のはじまりであり、彼女らは格子より下の扱いで客を取らされた。散茶とは下等なお茶、粉茶のことで、煎茶のように袋に入れて振り出さなくてもお湯を注げばすぐに茶になる、茶(袋)を振らなくても出ることから、「(客を)振らない」というシャレで「散茶」と呼ばれた。裏を返せば、太夫、格子は気に入らなければ客を振ってもよかったわけだ。
元からいた吉原の遊女には意気地があり、金を出せば誰とでも寝る私娼あがりとは違うと、新規入店した彼女たちをあざけって「散茶」といった。あるいは風呂屋で客に「散茶」を出していたことから名がついたともされる。
この時期に太夫、格子といった高位の遊女が消えてしまった理由として、上客とされた武家や豪商のけた外れの豪遊、太夫や格子を呼んでの「大尽遊び」が減ったこと、倹約令などにより武家の登楼がたびたび禁止されたこと、そして「散茶」が多くなったことで吉原の大衆化が進んだことが挙げられる。これに加え、江戸四宿(品川、内藤新宿、板橋、千住)や、岡場所とよばれる私娼街が増えたことで、吉原全体の客足が遠のいたことも理由とされる。
散茶はできた当初から「客を振らない」ことを謳っていた。つまり、散茶となら誰もが遊ぶことができたということになる。高嶺の花の遊女より、ギリギリでも手の届く遊女が持て囃され、人気が出るのも道理である。
この時代は、吉原を「遠い夢の国」から「たまに遊びに行くところ」までグッと大衆に寄せた時期ということになる。
吉原の位付け
太夫、格子のいなくなった吉原で遊女のランクの見直しが起こり、高位となった「散茶」は細分化され、「呼出(昼三)」「昼三」「附廻」と位が分けられる。その中でも呼出と昼三を「花魁」と呼ぶようになり、のちに「附廻」も含まれるようになる。
呼出昼三(よびだしちゅうさん)
張見世(女郎屋の格子の内で客を引く)をせず、引手茶屋の紹介で「呼び出され」客につくことから「呼出」という。このとき、茶屋へ客を迎えに行く行列を「(花魁)道中」という。振袖新造が二人から三人、禿が二人付いて、身の回りの世話をする。揚代は一両一分。
昼三(ちゅうさん)
揚代が昼の揚代が三分(夜も同じく三分)であることから「昼三」という。昼三にもランクがあり、見世昼三(「張見世」をしない昼三)、平昼三(「張見世」をする昼三)などがある。呼出に準じる扱いで、振袖新造や禿がつく者もいる。昼三と言いながら、昼夜共に揚代が一両かかる者、あるいは昼夜いずれかが二分と揚代が安くなる者もいた。
附廻(つけまわし)
いずれ花魁になる若手を附廻と呼び、揚代が二分と少しばかり安かった。そのため昼二とも呼ばれるが、実際は昼三と同じ程度の料金を取られた。
この下に「座敷持ち」「部屋持ち」がいる。
座敷持ち
新造から上がって、部屋を与えられた「花魁予備軍」。生活スペースである自室のほかに、客を招く次の間付きの座敷が与えられている。揚代は昼夜共に二分、夜のみは一分の者もいた。
部屋持ち
こちらも新造上がりの遊女。ただし、格が下がる。生活スペースの自室に客を招く。部屋が与えられるだけ優遇はされている。昼夜共に一分、夜のみは二朱というものもいた。
そして遊女の世話や教育係の「番頭新造」、遊女見習の「振袖新造」と「留袖新造」、そして「禿(かむろ)」がいる。
番頭新造
遊女について身のまわりの世話、茶屋や客の対応といったマネージャー的仕事、新造や禿の教育係などを行う。客はとらない。眉毛をそらず、紅白粉で化粧もしない。元は遊女であったものが年季が明けても吉原に残り、番頭新造になることが多い。
振袖新造
若い見習いの遊女。先輩遊女が見込んだ禿を推して振袖新造になる。振袖新造になると、花魁までの道が開ける(外れることもある)。先輩遊女に付いて遊女としての立ち居振る舞いや教養を仕込まれる。付いている遊女の身があかないときは、代わりを務めて客に接するが、床は共にしない。まれに客を取って貯め込む新造もいた。部屋は持たず、揚代は2朱。
留袖新造
同じく若い見習いの遊女。禿からではなく10代で身売りされた者、あるいは花魁としての適性がない禿は留袖新造となる。振袖新造と同じように先輩遊女に付いて仕事を学ぶ。17歳くらいになると客を取るようになる。部屋は与えられず、回し部屋という大部屋に割床(衝立などで仕切った寝所)で客をとった。
禿
幼いころに身売りされて、遊女に付いて吉原のいろはを仕込まれる。歳は6~14歳くらいまで。このときに容姿や才覚があると見込まれると、振袖新造となる。
『べらぼう』の中の松葉屋の遊女でいうと、
「松の井」(演:久保田紗友)は呼出
「花の井」(演:小芝風花)は呼出か昼三(見世昼三)
「うつせみ」(演:小野花梨)は座敷持ち
「とよしま」(演:珠城りょう)は番頭新造
「さくら」(演:金子莉彩)は禿
「あやめ」(演:吉田帆乃華)は禿
ということになる。
「朝顔」の場合
朝顔も元は松葉屋の花魁であった。寛延三(1750)年の生まれの蔦重が7歳で養子に出された後の話なので、亡くなる15年ほど前の話だろう(第一回の物語は明和九年~安永三年、1772~74年)。このとき、朝顔が20代半ばだとすれば、その死は40歳前だったことになる。(一説に吉原の遊女の平均寿命が22歳といわれる)
花魁がなぜ河岸見世の女郎にまで身を落としたか。実は、当時としてはそれほど珍しいことではなかったようだ。
まず、女性の身で吉原に入るというのは「身売りした(された)」ということで、売った相手にはそれ相応の金額が支払われる。親兄弟、親族に売られる者もあれば、女衒(ぜげん)という仲介業者を介して売られるものもある。
「人身売買」は原則御法度と建前があるので、これはあくまでも「年季奉公」というかたちをとる。そのため、年限を切ってそこまで働くと自由の身になる「年季明け」が設定される。その年季の間、衣装やら化粧の掛かり、妹遊女(女郎)への掛かりなどは自己負担となり、借金を返すどころかさらに膨らましてしまうことも多々あった(それが抱えている楼主の策略という面もある)。借金が増えるとその分年季が延び、年季明けも先送りとなる。
年季明けが近くなると楼主が「身請け(客が残債と諸々の費用を楼主に払い、遊女を吉原から引き取る)」されるか、親許に帰るか、このまま務めるか、を選択させる(借金があらかた片付いていれば、楼主の裁量で多少の残債はちゃらにしてしまったようだ)。このとき吉原に残る選択の中には、楼主が技量をみて番頭新造として残ってもらったり(やがて妓楼の遊女を取り仕切る「遣手」となる)、小店を買って商いをすることもあった。
だが、大抵はそこまでうまくはいかず、借金を抱えたまま年齢的に務められなくなると(大見世では、27歳前後になると引導を渡される)、格の下がった店へと移り、借金返済のため客を取り続けることとなる。
大見世・中見世から移った先が、小見世あるいは河岸見世ともなれば、格が下がったぶんだけ揚代も下がり、客の質もそれだけ悪くなる。夜の揚代三分だったものが、流れ流れて今は線香の燃え尽きるまでの間で百文、三十分の一の料金となるわけで、一晩で何人もの客を取らされるのは、「苦界」という名の通り。
また年季の間は病のリスクが高い。性病などは前近代的な避妊具では防ぐことが難しく、病にかかる遊女は多かった。けして衛生的とはいえない環境は感染症も起こりやすい。さらに、ろくろく食事が与えられず、栄養もつかないからますます病気へのリスクが高くなる。蔦重が忘八たちに「河岸女郎に飯を食わせてやってくれ」は、まさに女郎たちの置かれた厳しい現実から出た言葉であった。治療のために休むには、自らの揚代分の金を楼主に払わねばならないし、治療費も遊女の自己負担であった。これでは借金など減るわけはない。
『べらぼう』の中で、蔦重は風来山人(平賀源内)の『根南志具佐』を朝顔に読み聞かせる。字が読める朝顔が読んでもらう理由は、目が見えにくくなっているということであろう。症状がすすむと視力低下、最悪失明することがある梅毒への感染を起想させるが、朝顔は見た目に梅毒に感染している様子はなく、食事に手をつけていなかったところをみると、目の疾患はビタミンA不足からくる「夜盲症」であったのかもしれない(梅毒の症状を視覚的に表現することは避けたのかもしれないが)。
家族を生かすために身売りし、借金を返すために働いているのに借金がかさみ、病の影に怯えつつ、食うことすらままならず死んでゆく。吉原には花魁のように華やかで美しい世界があった、というのはごくごく一部の話。その花魁すら最下級の扱いをうける河岸女郎まで落とされて、哀れな死を迎えることを『べらぼう』では描いた。
吉原で文化の花が開いたことは事実ではあるが、そこには男の欲望を満たすことを強いられ、苦痛に耐えていた遊女たちが多く存在したことも事実。『べらぼう』では、そこを多角的に描いてくれることを期待している。