コロナ渦において大学生として存在する意義
春学期を終え、夏休みになった頃、両親と大学に所属する意義をゆっくり話し合う時間があった。コロナウィルスが流行して以来、1人でいる時も大学に所属する意義を考える時間が増えた。高校の時、大学に入る意義=
1.学歴社会である日本で、第一希望の会社に入るチャンスを得ること
2.育った背景が全く違う人々との出会いの機会があること
3.自分の人生設計を考える上で、やりたいことが明確になっていないため、会社に入る前の準備期間とする、または興味のあることへの知識を深めることができる
などであった。
(今の私が大学に通う意義は少し異なる)
しかし、現在は高校生の時に思い浮かべていた大学生活を思い通りに過ごせていないことに気付いた。思い通りに生活できている人はいるのだろうか?きっといない。でもこれは仕方がないことだと思う。この仕方がない状況をどうにかして変えようとする人は多くいるはずだ。思い通りにいかないマイナス点をプラスに変えようと行動している学生だ。
しかし、学校側は本当に学生を応援しているのか。私が受ける春学期の授業はほとんどが資料配布型だった。履修した14コマの授業のうち3つはzoomでの双方向の授業。YouTubeや音声のみ配信する授業は14コマ中3つ。他の授業はただ参考書や資料を読んで自分で学習してくださいというものであった。私が履修した授業の過半数以上が資料配布型だった。
大学とは独学で勉強するところであったのか。
唯一しっかりと双方向で授業できていたのは、長岡ゼミと留学の授業と英語のクラスのみだった。中国語の授業さえ、「教科書の問題を解いて」と課題を出すだけでだった。
だが、ある意味これは私の愚痴?言い訳?で、確かに自分で主体的に勉強することも大切である。
逆に主体的に学ばなければ、この4年間何をしていたのかわからなくなるだろう。今までは大学に入ったことに安心し、自分に甘えていたことに気づいた。
このコロナ渦においてだけでなく、主体的に進んで動かなければならないということは、どんな時も変わらない。自分から動くことによって多くの人と出会うことが可能になり、興味も広がる。
では、教授から直接学ぶことができる量も人とのつながりも極端に減ったコロナ渦における大学生としての存在意義とは?
この繰り返しだった。
こんなことをぐるぐると繰り返し考えていた時、ある友達が
さらっとすごい話をしてくれた。
「私、今休学してるんだよね」
彼女はコロナウィルスが流行してすぐに休学を決断した。そして国家資格の試験勉強に全力を注いだ後、試験を受けた。その後インターンをしながらInstagramで自分の興味関心のある社会的事象を研究し情報発信をしている。そのフォロワーは3000人に達している。そして来年から留学する計画を立てている。この決断が彼女にとってプラスの方向になるかマイナスになるかはさておき、決断力が素晴らしいと思う。どうしてそんなことを即断即決できるのか。私には絶対にできなかったことである。というより、今まで休学という2文字が浮かびすらしなかった。この時、コロナ時代に必要なのは先を見据え、できる限り早く良い方向へ舵をとろうと試みる決断力と行動力なのではないかと強く思った。
思い返してみると、私自身も何かやらなくてはと焦って、懸命に考え、長岡ゼミに加わらせて頂いた。そこで新しい出会いがあり、様々な考え方に接して刺激を受けることができた。
このことだけでも春学期に大学に所属した意義は大いにある。しかし2年時にゼミに所属している学生は少ない。もし私がゼミに入っていなかったら・・・と考えると怖くなる。
春学期は何をしていたんだろうと自分を責めていただろう。けれど、素早く行動したおかげで、自己嫌悪に陥る心配は今のところない。
秋学期は、春学期以上に自ら学ぶ必要がある。春は突然の厳しい事態に戸惑っている時間が多かった。秋は春に学んだことを踏まえつつ、この事態の中でもできることを最大限に考え、自分自身に合った方法の学習を模索していく。そして、新しい何らかの出会いを探す。もちろん以前からの出会いも、いつも以上に大切に。私は今後もコロナウィルスの流行が続き、来年も完全にはオフラインの状態には戻らないことを仮定して生活するつもりだ。また、どんな状況になっても自分が今何をすることが最も大事なのかを慎重に、かつ迅速に考えて行動することを常に頭に入れておきたい。