「いじめること」と「いじめられること」(その2)
もうひとつ、10年以上前に、各界の著名人が、「いじめられている君へ」という共通のテーマでメッセージを寄稿するという朝日新聞の企画があり、その中のひとつに、タレントでもあり、海洋学者でもある、さかなクンの有名なメッセージがあります。
「広い海へ出てみよう」
中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。(朝日新聞2006年12月2日掲載)
さかなクン以外の人たちの記事をすべて読んだわけではありませんが、ざっと見たところ、ただ逃げることを勧めたり、読者(いじめられている子)を傷つけまいとしてか、変に、もしくは過剰に気を遣ったり(というか、媚びたり)、いじめっ子を糾弾したり、はたまた、自分の専門分野を引き合いに出して、こういうことをしてみなさい、と助言したり、そんなメッセージばかりでした。
さかなクンのメッセージは、他の人のものとは一線を画していて、本質的に何かが違います。
誰も責めていないし、逃げなさいとも言っていない(「広い空の下、広い海へ出てみ」ることは、逃げることではない)。
事実を淡々と、そして自分の思ったことを、ただ静かに伝えているだけ。
それでもなぜか、心が温まるのです。
いじめている子も、いじめられている子も、心がとても冷えています。
そして、とても飢えている。
雪山で遭難している人に、早く逃げなさい、この吹雪のせいで、ひどい目に遭いましたね、などと言っても、何の役にも立ちませんが、何も言わずに、ただ、吹雪をよける頑丈なテントと、温かいスープを用意してあげることができれば、どれだけ救われることでしょう。
いじめられている子に、逃げなさいと言うのは、とても簡単なことです。
だけれども、大切なのは、逃げたあとどうするか、本人が、どうやって自分自身で自尊心を回復するか、どうやって力強く生きていく力をつけるか、ということではないかと。
そんなことが、ほんの短いメッセージで伝えられるとは到底思いませんが、それでも、さかなクンのメッセージには、そのエッセンスが含まれているような気がするのです。
さかなクンの人間的なやさしさ、おおらかさがじんわりと伝わってきて、いまだにこのメッセージを涙なしでは読めません。
続きます。