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「いじめること」と「いじめられること」(その1)

少しセンシティブなトピックですが、「いじめること」と「いじめられること」について、何回かに分けて書いてみたいと思います。

まず、かなり長い引用になりますが、はせくらみゆきさんの著書『こうすれば、夢はあっさりかないます!』から、「息子の『いじめ事件』から学んだこと」。

息子の「いじめ事件」から学んだこと

 もうずいぶん前ですが、息子のひとりが小学校を卒業する直前にいじめられたことがありました。
 もともとは、単なる悪ふざけだったのでしょう。それがだんだんエスカレートして、とうとう、抜き差しならないところまできたのです。
 それは子どもだからといって見のがすことはできないものでした。いじめを行った相手は、からだの大きなクラスのボス的な存在です。
 とはいえ息子は、何も言わないまま、普通に学校に通っていました。いじめのことが発覚したのは、それを見ていた同じクラスの子の幾人かが、学校へ行きたくないと言い出し、そこで初めて先生も親も知ることになったのです。
 学校から連絡が来て事態を知った私は、何ともいえない憤りや悲しみ、やるせなさ……さまざまな感情が混じり合って、久しぶりに心が乱れ、落ち着かない数日間を過ごしました。
 その間、幾度も自分自身の感情と向き合って、その出来事を俯瞰できるようになるまで、自らの心と格闘しなければなりませんでした。
 というのは、週末には、いじめた子どもと親が、謝罪しに来ることになっていたからです。
 そして、そのときはやってきました。
 私は緊張した面もちで彼らを待っていたのですが、いざ、子どもの顔を見たときに、少し拍子抜けしてしまいました。
 なぜなら、親より背は高くなっているものの、顔にはまだあどけない表情の残る少年なのです。
 その子は、青ざめた顔をして、お母さんに連れられて立っています。
 そして震える声で、「僕は、○○クン(息子の名前)をいじめました。ごめんなさい……」と玄関の床を見ながら言いました。
 私は「どうして、息子をいじめたくなったの?」と聞きました。すると最初は、誰でもよかったなどと言っていましたが、ふと、思い出したように「だって、アイツがしあわせそうだったんだもん……」とつぶやきました。
 そのとたん、その子の心のなかにある寂しさ、悲しさが、一気に私の心にも流れ込んできました。すると、私の胸もきしむように痛くなって、思わず、「寂しかったね。つらかったね。本当によくがんばっているよね……」と言ってしまったのです。
 その子はびっくりしながら、私の目を見ています。
 すると、そばにいたお母さんが突然、ワッと泣き出し、「申し訳ありません……申し訳ありません……」と言って平謝りし始めました。
 お母さんが言うには、シングルマザーでがんばっていたけれど、精神的につらいことが重なり、子育てに向き合う余裕がなくなってしまったそうなのです。
 私はお母さんの背中をさすりながら「もういいです。大丈夫、大丈夫です」となだめていましたが、繰り返し、息子の将来を悲観する否定的な言葉をなげかけては、自らを責め続けています。
 その傍らでは、青ざめた子どもが、うつろな表情で立っていました。どうやら彼は、今回のいじめだけではなく、他でも、いろいろなトラブルを起こして問題児となっていたようなのです。

 私はその子に問いかけました。
「君は本当にそんなことしたかったの?」
 するとその子はハッキリと「いいえ」と答えました。
「じゃあ、本当はどんなことがしたい?」と聞くと、しばらく考えてから、「オレ、カッコいいことしたい」と言いました。
「カッコいいこと教えてあげようか」
「うん」
「それは、お母さんを抱きしめてあげることだよ。そしてお母さんはオレが守るから、って言ってあげな。それって、最高にカッコいいと思う」
 そう言うと、その子は、黙ってお母さんの背中に手をまわし、ギューッと、背中から抱きしめて顔をすりよせたのです。その姿を見た、私と夫、そしてその子もお母さんも、みんなポロポロ涙をこぼして泣きました。
 その子は、帰りがけに、「僕はおとなしい子と、お母さんを守る人になるから」と言い、母親の腕を支えて帰っていきました。
 一方、お母さんには「ともに、子どものしあわせを願う同志として生きましょう」と告げたことで、転勤でその土地を離れるまで、よいおつきあいをさせていただきました。
 問題児といわれていたその子は、以来、問題行動がぐんと減り、親子関係もどんどん改善していったということです。

 実は、このような対応ができたのは、息子の思いがけないひと言があったからでした。
 今回のいじめがわかったとき、息子の気持ちはどうなのかを聞いたのです。さまざまな感情が入り混じって心配する私に、彼は悲しそうな顔をして答えてくれました。
「〇〇くん(いじめた子の名前)のいろんな気持ちを、ちゃんとわかってあげられない自分が情けないんだ」と。
 これには正直びっくりしました。雷に打たれたほどのショックでした。想像だにしなかった言葉を聞いて、その日はなかなか寝つけませんでした。
 私は自分の未熟さと正面から向き合い、これからはよりいっそう強い意志をもって、「いのち」の視点から物事をとらえ、思考と感情、出来事を俯瞰できる人になるぞと心に決めました。
 こうして、子どものいじめ事件で湧き上がってくる種々の感情を、ただひたすら見つめ、裁かず、受け入れることに意識を向けたのです。
 起こる出来事は何であれ、すべてはよき方向へとつながっていること、起こる出来事そのものよりも、その出来事を通して、いのちは何を伝え、何を学びたいと思っているのか?
 人として、どう成長し、学びの糧とするのか?
 このことを実体験をもって深く考えさせられた一件でした。

このあと、私の苦手な、「ミラーワーク」で自分を好きになろう!という流れになるのが残念なのですが(笑)、この項は、いじめっ子の心の背景というか、なぜいじめに至るのかというその過程が、理屈ではないところで書かれていて、もし、いじめっ子がこれを読んだら、自分の心の深い深い部分を、ぎゅっとつかまれる感覚がするのではないかなと思います。

というのも、いじめ、いじめられの、両方を経験している私が、これを読んで大泣きしたから。

とりあえず、私は私のままでここにいていいんだ、と思える子に、そして、毎日、うれしいな、楽しいな、と、友だちに囲まれてニコニコ生きている子に、人をいじめる必然性がないのと同じで、私が私のままでいることは許されないんだ、と思う子が、そして、毎日、腹立つな、しんどいな、と、ひとりぼっちでイライラ生きている子が、人をいじめるのは、ある意味道理かなと(もちろん、いじめという乱暴な鬱憤晴らしができない繊細な子も、当然ながらいると思いますが)。

続きます。


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