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自我と爆破
ここ最近はずっと仕事について考えてしまっている。
所詮雇われの身、自我を芽生えさせた者負けな世界だと思っている。
就職活動の時は「自分の好きなことを仕事にはしない」という軸を持っていた。
ギターが大好きで大学ではギタークラブに入ったが、自分のモチベーションに関係無く常に情熱を持たないといけない環境(持つのが当たり前とされる環境)に馴染めなかった経験が生んだ、悲しき考え方である。
その代わり、福利厚生や給料等が良い会社に入る。
これが、大学生という視野の狭い若者が考えた「せんりゃくてき」な就職活動だった。
今の私は、この軸に苦しめられている。
IT業界で働いているが、今話題の生成AIだとかDeepなんちゃらだとかを積極的に使う部署では無い。何なら客先から「生成AIって間違える可能性もあるんでしょ?」と言われ、導入を渋られるようなこともある。自分の子供がテストで95点を取ったとしても、残りの5点を陰湿に責めるタイプである。
この令和の時代にAIよりも人の手や目を絶対視し、レガシーシステムの改修にお金を費やし、UIだとかUXとしても微妙なシステムを使い続ける。
導入することでお客さんが喜ぶ。そんな未来が全く見えない。
かなり古いシステムにちょっとだけ古いシステムを追加し、お客さんに「まあこんなもんか」というような評価をされ、淡々と納品する。
私が携わっている仕事で誰が幸せになっているのだろうか。
この業界において幸せは介在しないのかもしれない。無いところに幸せを求めるのは違うことも分かっている。
だがこの疑問を持ってしまった以上、週5フルタイムで働くことが精神的にかなりしんどい。誰の幸せのために、誰の生活が楽になるために、誰の胸をときめかせるために、私は自分の時間と体力を割いて働いているのだろうか。
大学生の頃は接客業ばかりやっていた。それはきっと無意識のうちに、お客さんのキラキラした眼を見たくて選んでいたのだろう。
その可愛いクッキー缶を取って、そのニンニクたっぷりの豚骨スープを啜って、その新発売のグミを買って、ニコニコしているお客さんの顔を見ることは楽しかった。
私にとっては、社会貢献を実感できる瞬間の 1つだった。
けれど辞める勇気なんて無い。綺麗事だけを言っていられる年齢ではない(と、されている)。快く生きるためにはお金が必要であり、ずば抜けた行動力や発想力が無い私みたいな人にとっては、結局会社に雇われて月々決まった給料を貰うのが現実的だ。
加えて、先ほどの就職活動の軸でも書いたが、運が良い私はそこそこ福利厚生に恵まれた会社に入ってしまった。
福利厚生とは偉大なもので、一度味わってしまうとその恩恵の沼から抜け出すことができない。
書籍は全て半額で購入できるし、家賃も何割かは会社が払ってくれる。多くの人が入っているであろうサブスクも、無料で利用できる。
「好きを仕事にしない」という1つ目の軸で選んだ業界で働く中で、仕事内容に興味が持てなくてこんなnoteを書いている。
しかし「福利厚生が良いところ」という2つ目の軸で選んだ会社の恩恵を受け続けたくて、結局転職するのを躊躇っている。
私は何と情けない生き物なんだろうか。
どんどん会社の最寄駅に近付いてしまう。苦しい。ここ最近で1番テンションが下がったのは、自宅の最寄駅の駅メロが会社の最寄駅と同じ駅メロになったことだ。
今日もいつもと同じような澄ました顔をして会社に行く。会社という場所は勤勉さが評価される場所である。何事も問題を起こさず、自我を芽生えさせず、ルーティンワークに抵抗が無い人には天国だと思う。
「会社員に向いてるね」は、私が1番言われたくない言葉かもしれない。
全て無くなってしまえばいいのに。