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2月5日
最近は、村上春樹の『1Q84』をゆっくり読んでいる。
複数の物語が並行で展開されているのだが、
それがどう交わるのかを楽しみにしながらページをめくっている。
村上春樹氏の小説を何冊か久しぶりに読み返しているのだが、彼の性の描写には実に感服させられる。性の描写に限らずとも、1つ1つの物事が繊細に描かれている。これは如何に彼が、全ての物事に対して純粋な敬意を持ち合わせていたかの現れだろう。
音楽も今ではサブスクアプリで簡単に聞けるが、音質や雰囲気を求めるのなら良いスピーカー、音が雑に反響しない空間創りなど、突き詰められる部分はたくさんある。
私はふと思う。そのように1つの物事に対して
純粋に向き合う機会というものは減っていってしまうのではないだろうか、と。求めすぎる必要が世の中から消失していく気がする。
例えば私は写真を撮る時、デジタル一眼レフやiPhoneで十分である。(こだわりはあるけど)
フィルムも、そこそこ撮れるものであればよく、現像も店に任せている。
私の知り合いには、自家現像にまで手を伸ばしている人がいて、彼は本当にフィルムカメラが好きなのだろう。好きだからこそ、純粋にこだわって、フィルム写真に向き合っているのだろう。でも、フィルムが好きな人でもそこまでこだわる人はなかなかいない。
簡単できるものが増えたからこそ、深くまでこだわる人は減っていってしまうと感じる。
村上春樹氏の表現は、こだわり抜いた先に見えた経験の賜物である気がする。普段の生活の中でこだわり抜けるところはこだわっていきたい。多分それが、その物事に対する最高の敬意になると思う。