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コロナの時代の愛(1)

 脱色した髪が揺れている。
 次の曲のBPMを気にしながら、目の端でそれを見ている。
 初めて来る客だと思う。あの髪は見たことがない。
もっともそう思うだけで見たことないのは髪の色だけかもしれない。客の顔を覚えるのが苦手なので確信はない。
 壁際にもたれたまま、脱色した髪が左右に揺れている。マイナーな四つ打ちだが気持ちよさそうに揺れている。だがフロアに来る様子はない。
 壁の花だ。自分もそうだからわかる。楽しんでくれているのはわかるが、我を忘れて踊るほどではないのだ。頭が冷えているんだろうな、今の曲じゃ踊りにくいのかな、と考えかけてやめる。悪い癖が出ている。
 また考えすぎのムシがじわりじわりと湧いてきて、と、頭の中で母が歌った。
 母の好きだったアーティストの曲だ。
「シノハラは考えすぎるよな」ケンジさんが言っていたことを思い出す。「みんなが知らない曲でもいいんだよ、知らない曲で踊れたら逆に楽しいだろ」
 ごめんなさい、自分、ダメです。心の中で舌を出す。
 縦フェーダーの動きに合わせて有名なイントロがフロアに響く。
 ケミカル・ブラザースだ。何人かがお、という声をあげる。バーカウンターでドリンクを受け取った女の子が、歓声を上げながら慌ててフロアに戻ってくるのを見て、シノハラは心の中でガッツポーズをする。ベタだと自分でも思うが、平日の、こんな状況なのにフロアを埋めてくれるお客に、精いっぱいのお返しがしたいと思う。
 シノハラはそういうタイプの人間だ。少し、面倒くさいタイプかもしれない。
 プラチナの髪がぱっと明るくなった。手が上がる。はにかむように微笑んで、グラスを高々と掲げている。
 その笑顔を見てどこかで見たことがある、と思った。
 やはり客の顔は覚えられないな、と苦笑する。
 シノハラはそういうタイプの店員だ。

「お疲れ」
 バーカウンターに戻ると、ケンジさんが肩を軽くグーパンチした。
 最近は低空飛行を続けていたケンジさんの機嫌がよくなっている。
 ここのところのウイルス騒ぎがライブハウスに与える見えない圧力のせいで、少しずつ状況が変わってきているのをシノハラも感じている。今日も本当ならライブの転換だったはずが、ライブがなくなり急遽DJイベントになった。急な告知だったにもかかわらず、常連を含めて十人ほど来てくれて、フロアはそこそこの埋まりだ。
シノハラがBJでバイトを始めてこの二月でそろそろ一年になろうとしている。演者として来て、客として来て、腐ってた自分にDJを教えてくれて、バイトとして雇ってくれているケンジさんには感謝しかない。
 次のDJはツグミだった。ツグミは背が低い上に猫背だから、BJの、客から見て位置の高いDJブースだと姿が消えて見える。バーカウンターからはツグミのマッキントッシュのリンゴマークだけが見えた。
口の悪いケンジさんが、「自動DJシステム」と呼ぶゆえんだ。
 お気に入りの曲がかかったのか、ケンジさんのアフロが揺れている。
「ジンジャーハイボール」
 声がしたほうを見る。さっきの脱色した白い髪がこっちを見ていた。
「濃い目で」
 にかっと笑う。
 ウイスキーを氷の入ったグラスに注ぐ。少し考えて多めにしたニッカに、ジンジャーエールを注ぎかき混ぜる。
 千円札を受け取ってお釣りを渡し、グラスを差し出す。
「どうぞ」
 受け取って一口飲むと、「やったね」と言って白髪がまたにかっと笑った。
「大好き」
「は」シノハラの細い目が、少し開く。
「さっきの曲」
「ああ」シノハラの目が細く戻った。「ありがとうございます」
「ねえ」暗い照明のなかで白い髪の上をミラーボールの光がなぞる。
「DJネームのシノハラって本名?」
「はい」シノハラは答える。「苗字です」
「シノハラって名前だったらやばいよね」
「ですよね」苦笑するしかない。
「あたしミヤ」白髪が左手を差し出した。「よろしく」
「よろしくです」左手を軽く握る。
 ミヤがぐっと顔を近づけてきた。近い。
 耳元でささやく声がした。

「初対面じゃないよ」

 息が耳にかかる。
 クラブやライブハウスじゃよくあることなのに、なぜか顔が赤くなる。

 顔を再び離して、ミヤが真顔になった。
「覚えてない?」
「覚えてない」シノハラは少し慌てた。「え、ちょっと待って待って」
 ミヤはきびすを返すと、グラスを持っていないほうの手をひらひら振った。
 フロアの壁に戻っていく。
 ロボットのようにぎこちなく、左足をひきずって。
 かこん、かこんというリズムで歩く。
 踊っていた男女が慌ててよける。
 その歩き方に見覚えがあった。
 シノハラはぽん、と手を打った。
 いや、すまない。シノハラはそんな漫画のような動作をするタイプではない。だが頭の中でシノハラはぽんと手を打った。
 わからないわけだ。クリスマスイブの子だ。

「ミヤちゃん髪染めたのな」後ろからケンジさんが言った。
「ええ」シノハラは言った。「つか名前初めて聞きました」
「言わなかったっけ」
「はい」
「ミヤちゃんな」
 急にケンジさんがヘッドロックをしてきた。
「いててて」
「おまえなに勝手にウイスキー増やしてんだよ」ケンジさんが笑いながら頭を絞めた。
「いやいやいやすいません」見てたのか、油断がならないな、とシノハラは思う。
「まあいいや」手を放す。
 額をさするシノハラに、
「あんまし飲ませんなよ」
急に真顔になってケンジさんは言う。
「あの子にさ」
 はい、とシノハラは生返事をし、続けてああ、そうね、と思い直し深くうなずいた。
「いや、おまえ、わかってねえみたいだけど」ケンジさんは指を立てた。
 これは本当に立てた。ケンジさんはこういう漫画のような動作をするタイプだ。
「大変なことに、なるんだよ」

 BJのトイレは新宿のライブバーにしてはきれいなほうだと思う。掃除の手を抜いたことは一度もない。
 開店前に自分で念入りに磨いた便器に腰をかけ、ケンジさんの趣味のトレインスポッティングのポスターが貼ってあるドアを眺めた。
クリスマスイブのことを思い出す。
 令和最初のクリスマスイブは平日だった。
 シノハラにはつきあっていた女の子がいた。前のコンビニバイトで知り合った女の子で、インスタに毎日写真を挙げるようなタイプの子だった。
 クリスマスイブは埼玉の実家に行くから会えないと言われて、シノハラはBJのシフトを入れた。クリスマスライブで、三組のバンドが入っていた。トリのバンドは、ホッケーマスクを被ってデスボイスで歌うハードロックバンドで、そこそこ人気があったので客はまあまあの入りだった。クリスマスに聞くタイプのバンドではない、とは思うが。
 確かあのとき、トイレで何気なく携帯を開いたら、インスタの通知があって、ディズニーのイルミネーションの前でピースをしている彼女の全身写真が出てきた。シノハラは瞬時に彼女のインスタのフォローを解除して、ツイッターをブロックした。
 何度か指で逡巡して、LINEはそのままにしておいた。
 もちろんそれから現在に至るまで一度も彼女からメッセージは来ていない。

 そんなだからシノハラはその日珍しくライブで最前に突っ込んでモッシュなどし、ボロボロになってカウンターに戻って、調子に乗った客のおごりのテキーラの爆撃で沈んだ。
 気がついたら床で寝ていた。
 シノハラはどんなに酔っていても少し寝れば瞬間で回復する肝臓の持ち主だったから、すぐに何が起こったか理解した。スマホを見たら画面が割れていた。
 深夜二時。
「おおい」カウンターからケンジさんが声をかけた。「生きてるか」
 なんとか、と頭を振りながらシノハラは応える。ケンジさんは珍しいな、おまえがこんなんなるの、と笑って氷に炭酸水を注ぎ差し出す。
 炭酸水の泡で頭がはっきりしてきたら、フロアの中央に黒い物体が見えた。
「かわいそうに」ケンジさんが言った。「おいてかれた」
 近づくと、黒いダウンコートの端からショートカットの頭がのぞいていた。
 女の子だ。
 誰すか、と訊くシノハラにケンジさんは「タッシンの彼女」と言い、いや、ニノだったかな、と首を傾げた。「確か家、高円寺だったと思う。シノハラ家、高円寺じゃん。送ってってあげて、悪いけど」財布から三千円を出して渡され、あ、なんか逆にすいません、とシノハラは頭を下げた。
 モップで床を拭き、トイレを開けると嘔吐物があったので処理し、掃除した。やたらハッカの匂いがした。そのハッカの匂いと吐瀉物の匂いがまじりあって、酒に強いシノハラも思わず戻しそうになる。
 掃除が終わってコートを着ると、床の女がむにゃむにゃと言った。
 いくら女性とはいえ正体をなくしてしまった女性をひとりで抱えるのはしんどいので、ケンジさんと二人で店の前に出した。靴が体の割に大きなスニーカーで、ヒールの高い靴でないのが救いだった。BJは靖国通り沿いなので、クリスマスイブとはいえタクシーはすぐつかまる。じゃ、悪いな、お疲れ、とケンジさんに言われ、シノハラは女の子とタクシーに乗る。
 女の子がぐったりとシートに沈んでいる。
 大丈夫ですか、と話しかけながら顔を見る。一度か二度店で見た気もする。タッシンさんという常連のバンドマンの彼女と言われたが、そちらの認識はシノハラにはなかった。シノハラのことだから思い出せないだけかもしれない。
 「高円寺駅まで」と運転手に伝え、車が走り出す。
 ラジオが流れている。クリスマスソング特集だ。
 いつまでも二人きりでいられると思っていた、とラジオが歌った。
 母の好きなアーティストの曲だ。
 自分をだまして他の誰かとディズニーランドに行った彼女のことよりも、若くして亡くなった母のことを思い出して、少し鼻の奥が痛くなる。

 隣の女の子が体をこちらにもたれかけてきたので思考が中断した。

 今度はゆっくり顔をのぞきこんだ。
 丸顔で、眉は濃くてそこに知性を感じるが、今はだらしなくゆるんだ口元が台無しにしている。年は自分より少し上くらいだろうか、とシノハラは見積もる。
 かわいい部類と言えるかもしれない。
 唇がぱくぱく、と動いた。
 シノハラは思わず見とれた。
「痛」
 足を蹴られた。金属のなにかでむこうずねを蹴られたような痛みが走る。なんちゅう硬い脛をしてるんだ、とシノハラは思い、そっと肩で彼女を押し返した。
 彼女の口から息が漏れた。
 ハッカの匂いがした。
 おまえだったのか、シノハラは口の中でつぶやく。トイレで吐いたのは。

 車が高円寺についた。ケンジさんからもらった三千円に少し足して支払いをすませ、タクシーから彼女をおろした。
 駅前のイルミネーションももう消えていて、酔客が少しいるばかりだ。
「大丈夫?高円寺ですよ」と言う。
「ん」立ち上がるが、少しよろけた。体を支え、駅前のベンチに座らせる。高円寺でいつも歌っているストリートミュージシャンもさすがにこの時間はいない。松屋の黄色い看板を眺めながら少し途方にくれていると、彼女が目をさました。
「あれ?」周りを見渡して言った。「ここ?」
「高円寺ですよ。タクシーで送ってきました」
「え?」目をこする。「ありがとうございます…なんかすいません」
「帰れますか」
「ここどっち口ですか」
「北口です」
「すごい…魔法だ」ゆっくりと立ち上がる。かなりふらついている。
「大丈夫ですか、一人で帰れますか」
「大丈夫」ぐっと肩をつかんで体を支える。「本当にありがとうございまふ」
 言えてないですよ大丈夫ですか、とシノハラが言いかけると、急に力強く抱きしめられた。
「本当にありがとう」耳元で声がした。「メリークリスマス」
 息が熱い。ハッカの匂いがした。
 シノハラはもう吐瀉物のことは忘れている。
 ふくよかな体の感触、人間の体の重みがシノハラにのしかかる。
シノハラはその感触は知っていた。何も知らないわけではなかった。だが、それほどよく知ってはいない。せいぜいふたりか、三人までだ。
 腕を放すと、また少しバランスを崩し、シノハラの腕をつかんだ。照れたようにシノハラの顔を見て、へへー、と笑った。
 そしてゆっくりシノハラの手を離すと、ばいばい、と手を振って歩き始めた。
 不自然に、左足をひきずっている。
「ねえ」大声でシノハラは叫んだ。「大丈夫?足、ケガした?」
 ふりむいた。ううん、大丈夫!と元気に叫び、ズボンの左足をめくりあげてみせた。
 金具がついた革の装具が見えた。
「生まれつき!」
 そういうと足を戻し、またゆっくりと歩きだす。
 ひょこり、ひょこりと独特のリズムで、だがさっきよりずっと確かな足取りで。
 シノハラはぶるっと震えた。
「さむ」

 そうか、あの時の、と思いながらシノハラは立ち上がり、トイレを流し、手を洗いペーパーで拭いた。
 コンコン、とノックの音がした。
 慌ててトイレから出ると、ミヤが立っていた。

「あ、すいません、トイレ」シノハラは少しびっくりして道を譲った。「どうぞ」
 急にミヤがどん、と体を預けてきた。
 シノハラの胸に体を預ける形になる。
「思い出した?」
 トイレの入り口はフロアからは少し死角になっているし、フロアは暗い。だがそんな問題じゃなく、少し動揺する。
 ミヤが体を預けたまま、ぐっと顔を近づける。
 唇の感触がした。
 ミヤが唇で、シノハラの上唇をむに、とくわえるようにしてキスをした。
 そんなキスをされたことがなかったので、シノハラは少し動揺した。

 いや、今まで一度も、キスを向こうからされたことなど、ない。

 シノハラの思考はいま一瞬停止している。
 ミヤがへへー、と笑った。
 いつか見た笑顔だ。
「じゃ、高円寺駅前で」
 そういうとミヤはひょこひょこと歩き出した。
 ドアが開いて、また閉まる音がした。

 頭をふりながら、シノハラはバーカウンターに戻った。出番の終わったツグミが、カウンターのスツールに腰かけてオレンジジュースを飲んでいる。ツグミは酒が飲めない。眼鏡ごしにシノハラをにらむ。
「え?」シノハラは首をかしげる。
「あのさ」ツグミは憮然として言った。「評判悪いよ」
「なにが?」どきどきしてシノハラは応える。
「あのひと」
「ああ」シノハラはカウンターに入ってグラスを洗い出す。「ミヤさん?」
「誰とでも寝るって」
「そうなの?」
「タッシンさんの彼女って知ってた?」
「うん、ケンジさんから聞いた」
「ニノさんともしてたんだって」吐き捨てるようにツグミは言う。
「そうなんだ」
 今日最後のDJがフロアを揺らしている。そろそろ今日が終わる。店も閉める時間帯だ。
「なんかやだ」ツグミはそっぽを向く。
「まあね」
「トモダチなの?」
「名前も知らなかった」シノハラは注意深く言葉を選ぶ。「店でつぶれてたのを、ケンジさんに頼まれて一回送っていっただけだし。家は近所だけど」
「ふーん?」ツグミが眼鏡の奥からにらんだ。
「それだけ」シノハラは真顔で言う。「友達では、ないかな」
「本当に?」
「マジで」
 疑わしそうな目でツグミはシノハラを眺め、ふーん、ふーん、と繰り返しながらリュックを背負って帰っていった。

「左利きのBabyって歌知ってるか」帰る準備をしていると唐突にケンジさんが言った。
「え?」聞き返す。
「ブランキージェットシティの歌。シノハラ、ロック好きだよな」
「あ、はい。ブランキーは知ってます」
「左利きのBabyなんだよな、ミヤちゃんは」
 なんだかよくわからず、あいまいにうなずく。
「悪い奴じゃないんだ。だけど、あんまし飲ますな」
 それだけ言うとケンジさんはブースの電源を切って、テーブルに布をかけた。
「それはそうと、EXILEもPerfumeも、中止らしい」
「マジですか」
 政府から要請があったのは知っていたが、ドーム公演が中止になるというのは、なかなか尋常ではない。
「だからちょっと、やな感じだ。来週のライブもさ」
「はい」
「ちょくちょく中止の連絡がメッセンジャーに来てる」
「マジですか。やばくないですか」
「やばいよ。だから、来週もシフトんときは急にDJ頼むかもしれないから、音源持ってきといてくれ」
 わかりました、と頷きドアに手をかける。振り向いて言った。
「店は」
「閉めねえよ」ケンジさんは笑い飛ばした。「コロナかなんか知らないけど、風邪だろ?インフルみたいなもんだろ?びびってんじゃねえ、って感じだよ」
「ですよね」
 少しほっとしてシノハラは「じゃ、失礼します」と店を出た。

 終電に揺られながら、携帯で音楽を検索する。
「左利きのBaby」はすぐに見つかった。

 ああ、この曲か、とシノハラは思った。

 なんとなくケンジさんの言いたいことがわかって、電車を降りる。改札を出て北口に出ると、「ねえ!」と大声で呼ばれた。
 デニーズの前で凍えながら、ミヤが待っていた。

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