アセクシャルを自覚せず人を抱きかけた話
生身の人間に性愛が向かないか、あるいは向く条件が極めて限定的なので、アセクシャルを標榜している。一応性愛が向く対象はある。生身の人間に性愛が向かないことを自覚しないままラブホに入ってしまった話を読者向けにすると共に、自分のセクシャリティの根幹を分析することも目的としてこのnoteを書いているので、オモロに振り切った話は期待しないでほしい。
共通の話題が何もない友達がいる。名前をとってKとしよう。Kとは話題も合わなければ価値観も合わない。彼女は抽象を解せず、なんとあらゆる創作物を嗜まず、挙げ句異性に対しては徹底したテイカーでいる。彼女がそうであることの背景を知らなければ、僕はKを酷い言葉で罵っていただろう。それでも僕がKのことを友達と呼んでいるのは、彼女の性格と能力が終わっていて他に友達も全くおらず、毎度人間関係を理由として仕事を変え続けてすらいるからだ。知り合ってから今までで最後まで残ったのは僕だけだった。周りからの彼女の評価も終わっている。自死を選ばない限り知り合いには生きていてほしいので、孤立して死にかけていたらテイクされてやろうと思って、細々と関係している。
その日、会うのは随分久々だった。Kは僕らに共通の話題がないことをわかっていないようで、会ってすることもないのに遊ぼうという。共通した教養を持たない人の間で交わされる最後のユーモアが下ネタであるように、共通した楽しみを持たない人の間で交わされる最後のコミュニケーション手段がセックスでありうる。だからひとしきり買い物に付き合わされた後、当然のように近くのラブホテルへ入った。
そこで体験した新しいカルチャーショックがある。Kは入室すると必ずAVを見始めるのだが、その日はやたら出演女優の体型を貶していたのだ。AVを観たのも自分は久々で、かつその良さがよくわからなくなっていて、ああこの人は健康においてこれ以上ないくらい適切な体型をしていらっしゃるなと思っていたところだったので、その言葉に仰天した。ルッキズムによるとあの体型はありえないのだろうか? お前そんな言葉を臆せず言い放つ野郎のせいで痩せ志向を先鋭化させるんだぞ、という怒りを込めて、そうかあ? とだけ返した。まるで自分がその女優の身体に魅力を感じているかのように。このあたりで、自分が実在する人間に欲情できなくなっているのではないかとの心配をし始めた。人間として生まれ育てられた以上は人間を愛さねばならないとの強迫観念に駆られ、人間に性愛を持つことに何ら疑問を持ってこなかったので、まだ認められないでいた。
諸々あって、目の前のKにも欲情できなくなっていることを知った。目の前にいる人間としてあまりにもはっきりと人間であることを主張されて出た内言は、なんだこれ、だった。なんだこれ。目の前でアミノさんと水分さんが踊っていらっしゃる(僕の好きなゴータマ・シッダールタさんに言わせればそれはカルシウムさんだ)。彼女は過去の言動からヘテロセクシャル以外のセクシャリティを理解していないだろうと思ったが一応正直にとてもこれ以上行為を続けられないこととその理由を伝え、自分が全ての支払いを行っ(何が起ころうとどうせ僕だけの自腹にはなる)てホテルを出た。案の定、蒙昧で的外れで無神経な擁護の言葉をもらった。ああもう二つの意味でこいつは二度と抱かねえ。陰茎でなく神経が苛立つ。
自分でも奇妙な見方だと思う。人間であることを明示されると、むしろ物質としてしか見ることができなくなる。これは自分なりの適応機制(防衛機制)だと思っている。
自分は軽い自閉傾向を持っている。自閉症の人はしばしば、自分以外の生き物にも心や過去などの背景情報があるということを知らない。僕は知ってはいる。しかしそれは、「心は体によって作り出されるものだから自分と同じ体の構造を持っている生き物には自分と同じように心がありそうだ」という演繹の結果でしかなく、他人に心があるということを内面化できてはいない。このように、自閉傾向の強度も0と100だけではないので、「他人に心があることを知らない」と「知っている(内面化できている)」の間の項目の一つとして「知恵として知っているが耐えられない」があり、自分がそうである。適当な量を超える「人間らしさ」を表明されるとこの人間フォビアが強くなりすぎて、目の前のそれを人間として見ないようにしてしまうのではないか。それ以外に説明をつけられない。
僕はリョナラーだ。人が心身に外傷を負う様を好く。さらに自分の創作物にみられる傾向のひとつとして、ヒロインが自分のアイデンティティを支えるものを失う話ばかり書いているというものがある。鳥が翼を失う、兎が脚を切りつけられる、唆されて父親を殺す、赤の他人に妊孕性を奪われる……(一方で男性を主人公として一人称で話を書くと傾向が変わり、「ボーはおそれている」のように人間に対するより徹底した被害者意識を持たせてしまう。らいのはおそれている。これはまた別の機会があれば)
アイデンティティとは、その人らしさである。人をその人として成り立たせる何かである。その人の本質である。それを失ったとき人が人からモノへ近づくと自分が考えているとすれば、人がアイデンティティを失う過程に快さを覚えるということに説明がつく。
人をモノ化するという適応機制が本当に社会へ適応的に働くかどうかが心配だ。今は裸体を見るという形で「人間らしさ」を示されることのみが実在の人間に対してモノ化を働かせる条件になっているが、その条件が広がっていくことが適応を生むとは考えられない。創作という行為を使ってモノ化をシミュレートすることで得られる安心を最大化してこの拡大の必要をなくしていこうと考え創作をしているが、これ自体が拡大を招くという可能性を否定する根拠を見つけられていない。
自閉症者は自分以外の全てを単なる背景として見ているという話を聞くが、自分のこの苦しみは中途半端にそれが起きているからこその特殊なものだと思った。