精神的リョナのすすめ あるいは死に向き合え
人は自らに、斯くあれと願いその通りの衣服を着る。願う外見に寄せられたそれはもちろん立派で、めいめいのコンセプトがある。「着飾る」という言葉が自らの本質を隠し粉飾するという意味で使われることからわかる通り、衣服は自らの本質たる裸体を隠し粉飾する。
着飾ろうとするくらいだから、裸体はまあ惨めだ。それはもう惨めで脆弱で薄気味悪い。
ではそのさらなる内はどうか? この惨めな本体を生物として成り立たせるには、脆弱性の原因である骨格と臓腑が奇跡的なバランスで互いにつながり、一個体として互いを維持しなければならない。凡庸でつまらない生物を演じる現場の臨場感がある。裸体が生きるために、臓腑はその何倍も生きている。表面の肉を切るか剥ぐかして、この臨場感に触れることができる。ただし、いやさらにその時何かが一度でもそこに触れようものなら、積み木のように、奇跡的なバランスが音を立てて崩れ去り全てのシステムが不全に陥るのだという、新たな臨場感と支配感が重なる。
だからリョナに興奮する。
このリョニズムは、なにも肉体に限ったものではない。超自我が斯くあれと願う通りに自らの思考を御し、その通りに行動する。その規範を適用できない状況を以て「衣服を剥」げば、惨めで脆弱で薄気味悪い裸体を曝すことになる。そりゃ、酒を飲ますとかデスゲームに放り込むとかすれば、醜い本性とやらを垣間見るに決まっている。裸体は醜いからだ。醜いものを醜いと呼び喜んでどうする。もう一肌脱がすんだよ。デスゲームで内臓を曝すのに精神のそれを曝さないでどうする。惨めで醜い精神の裸体を何が辛うじて成り立たせているかを、火で照らすようにありありと曝し出せ。
人は肉体だけが傷つくわけではない。斧で首を叩き斬られる? 結構。果てないリンチで緩慢に死にゆく? 素晴らしい。しかしその過程で当事者は何を失った? 血肉だけではないだろう。鳥が羽根を失ったら何を思う? どう生きていく? あるいは絶望して死を願うか? ではさらに、なぜ絶望する? 絶望に至るエピソードとしてどのような出来事を配置する?
この精神的リョナを描くには、肉体的リョナの何倍もの文章が必要になる。肉体の苦しみはその瞬間を描くのに対して、精神の苦しみには必ず背景が伴う。背景を厚くすればするほど、傷つく精神も厚くなる。そして肉体が傷つけば精神が傷つくので、当人の苦しみを十分に描き表すには相当な文量を以てせねばならない。キャラクターとはいえ人一人の人生を奉ずるのだから、その全てを自らの筆致の限りを尽くしに尽くし限界まで書き切らなければ、それこそ命に対する冒涜である。
死なせると、その後を本人に語らせることができない。その人生はそこで終わりである。翼を失ったことを嘆けないし。立ち直ることも死ぬこともできない。尻切れとんぼ必至である。だから、死によって語れなくなった「事後の重み」までも、死までに描かねばならない。これこそが「バッドエンドは過程が大事」と言われる所以である。
……「えっちだ」と書くだけで千余字?