
In your heart 第5話
いつかはバレるって思っていた。
でも、その時が少し伸びただけ。本当に楽しい毎日だった。
「痛っ…」
時刻は8時半を少し回ったところ。仕事始めにはまだ時間があった。そんな時にファイルで頭を叩かれる。
「何回呼んだと思ってんだよ。最近ずっとボーッとしてるぞ」
「すみません…」
あの日から心にぽっかりと穴が空いたままだった。目を瞑ればそこには青色の光が鮮明に見えた。
「カルテよこせ」
「えっ…いや、俺大丈夫っすよ」
「余計なこと考えてる奴は足でまといだ。資料室でも片しとけ」
机に置いてあった俺のカルテを奪うと先輩は診察室に入った。
一見、雑に見えるが先輩の不器用な優しさを感じる。俺は資料をダンボールに詰めると医局を後にした。
「えっと…これはここで…」
久しぶりに入った資料室からは紙類が発する独特な匂いがした。
こんな気分はいつぶりだろうか。こっちに戻って来て…さくらに初めて会った時以来かな。
黙々と資料を整理した。何かしら手を動かしていないと嫌でも思い出してしまう。
「切り抜きはこっちと」
大方、資料を片付け終えた俺は棚に置いてある資料を1つ開いた。
そこには新聞の地元欄がスクラップしてあった。マメな人がいたものだ。
興味本位で数ページ眺める。そんな軽率な行動に直ぐに俺は後悔した。
「まじかよ…」
俺の手は6年前の8月25日で止まった。
そこには自分が目を背け続けていた事実が事細かに載っていた。
「水難事故、19歳女子大生死亡…か」
新聞は物事を簡潔に伝える。その簡潔さ故に、自分の気持ちが独り歩きしているような感覚に襲われた。
それでも俺はファイルを閉じなかった。目を背けるのはもうやめだ。
「えっ…これって…」
記事の途中で俺はファイルを閉じ、急いで資料室を後にした
自分の中で全てが繋がる。頭にかかっていた霧が全て晴れた、と同時にじっとしてはいられなかった。
医局に戻ると俺は携帯を手にし、一通のLINEを送った。
「あ、〇〇さーーん!」
仕事を終えると駅でさくらと待ち合わせていた。
「お待たせ、待った?」
お決まりの台詞を言ってみる。
「5分も待ちました。早く行きましょ!」
返答はお決まりではなかった。
会うのがあの日以来だった。久しぶりのせいなのか、なんだか今日は空元気のように思えた。
「今日もご馳走様です!」
「喜んで貰えて良かったよ」
さくらとの時間はなんだかいつもより早く進む。他愛もない話が弾み、気づけばもう帰り道だ。
「今日大学で〜」
「いや、それはさくらが…」
本題はまだ切り出せていなかった。足だけが着々とさくらの家に向かっている。
一度決めたのに、なかなか行動に移せないのは昔っからだ。これじゃあ男らしくないと怒られる。
「なぁ、さくら…」
俺は何とか言葉を紡いだ。背中は汗はこの残暑だけのせいじゃなかった。
お昼に一通のLINEが届いた。〇〇さんから、今日の夜ご飯のお誘いだった。
私はどんな顔をして会えば良いのか。そもそも会う権利なんてあるのか。
「乃木街駅で待ってます」
そう返信する。心臓が高鳴り、口から飛び出そうだ。
複雑に絡みあった心情は午後の私の頭の中を隙間なく埋めた。
「今日もご馳走様です!」
自分の胸の内を悟られぬよう、今日はいつも以上に明るく振舞ってみせた。
「喜んで貰えて良かったよ」
〇〇さんは一見、いつも通り見えたが、どこか緊張しているように感じた。
それに気づいたのは女の勘なのか、それとも罪悪感からなのか…なんとも言えない。
「なぁ、さくら…」
その一言で空気が一変した。さっきまでの他愛もない雰囲気が消え、背筋に凍るものが走る。
「…」
何か言おうとしても言葉が上手く出てこない。体が発言を拒んでいた。
直感的に何かを感じる。それもきっと良くない方。こういう時の勘は大体当たる。
「さくらだったんだな、飛鳥が助けたのって」
バックを握る手が震える。まだ口は上手く回らない。
親に悪事がバレた子供のように、私はただ俯くことしか出来なかった。
自然とあの日のことを思い出した。まだ決して色褪せない6年前の8月25日のことを。
その日はまだまだ暑い8月の終盤、夏休みも残り僅かで思い出を作りに海に来ていた。
小さな街だから子供から大人まで、みんなが知り合いだった。飛鳥さんを含めた大学生もいれば、私のような中学生も、私より小さい子もいた。
「みんな1人では遊ばないこと。沖に出すぎないこと。
後はあそこの岩場には危ないから近づかないこと」
飛鳥さんがちびっ子たちに注意をする。これは私も昔からよく言われていた。
「ねぇねぇ、さく?」
「どうしたのあやめちゃん」
「なんであっちはいっちゃだめなの??」
小さい子の好奇心は誰にも止められない。自分にもその心当たりがあった。
「海が深いから溺れちゃうんだよ。危ないから絶対行っちゃダメだよ」
「はーーい。あ、ゆなちゃんまってよぉー」
浅瀬にはちびっ子たちの歓声が響いていた。全ての集中が目の前の砂の城に注がれている。
だから飛鳥さんの声も私の声も届いていなかったのかもしれない。
「そろそろ昼ごはんだよーー。ちびっ子たち集まれーーー!」
昼ごはん集合がかかった。集まってきた子供たちの数を数える。
「ゆなちゃんにはるか、さやかにゆりちゃん…あれ、あやめちゃんは?」
ちびっ子たちに尋ねてもお互いの顔を見合わせるだけだった。私は凄く嫌な予感がした。
それからは手分けしてあやめちゃんを探した。
「しーさんは向こう、私はあっち探してくる」
飛鳥さんを含め、みんなが必死に探す。海だから最悪の場合も考えられる。
「あやめちゃーーーん、いたら返事してーーー」
声だけが虚しく響き渡る。もちろん、返答は無かった。
「ハァ…ハァ…どこ…」
息が切れる程に走り回っていた。ふとそこで朝のことを思い出した。
「まさか…やばいかも」
どこにいるか心当たりがある。それが当たっていたら…一刻の猶予もない。
疲れた体に鞭を打ち、私はまた走り出した。
「ハァ…ハァ…」
これだけのダッシュは文化部の私にはキツすぎる。肩が大きく揺れている。
「ハァ…ハァ…あやめちゃーーーん」
返事は聞こえない。それでも死ぬ気で目を凝らした。
「あっ!」
岩場の少し先で溺れているあやめちゃんを見つける。やっぱり予想は的中していた。
「あやめちゃん、掴まって!」
咄嗟に海に飛び込んだ。あやめちゃんは私の腕に掴まると大声で泣いていた。
「さく…うわぁぁぁぁあん」
「落ち着いて、もう大丈夫だから」
片腕であやめちゃんを抱える。これでもう大丈夫だ。
でも問題は泳いで戻ろうとしたその時だった。
「えっ…」
咄嗟に飛び込んだことで忘れていたが、走り回っていた体は既に限界に近かった。
体に力が入らない。生憎、この場所は足も着かない。
「あやめちゃん、あやめちゃん!」
まだ小さいあやめちゃんは体温が下がっていた。このままでは2人とも…
「誰かあぁぁ…」
ダメだ…目が霞んできた。このままじゃ本当に2人とも溺れてしまう。
自分の判断の甘さを恨む。あそこで人を呼んでいれば…
何とかあやめちゃんだけでも……そう思っても策は無かった。
最後の力を振り絞って足を動かす。私の最後の力は虚しく、少し水面を揺らしただけだった。
「…ぴー…えん…えんぴー!」
薄れゆく意識の中、聞き慣れた声が聞こえた。
「あす…かさ…ん…」
差し出された腕に力なく掴まった。それでも状況は好転しない。飛鳥さんだって足は着かない。
「えんぴー、とりあえず海から出て!」
そう言うと飛鳥さんは私の背中を岸に向かって蹴った。
「えっ…でも…」
「私は耐えるから早く!」
火事場の馬鹿力というのは本当だと実感した。何とか足が着く場所まで流れた私は、あやめちゃんを抱き上げて岸に上がった。
「誰か呼ばないと…」
みんながいる場所まで走りら事情を話す。あやめちゃんをタオルに包むと飛鳥さんの元に戻った。
岩場に戻って私は息を飲んだ。海がさっきより荒れていた。
「飛鳥さーーーん、飛鳥さーーーん」
一面波立つ海に飛鳥さんの姿は見えなかった。
膝から崩れ落ちた。12歳の私でも今の状況は理解が出来る。
そこから先は記憶が曖昧だ。次に我に返った時には、病院で冷たい涙を流していた。
fin.