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In your heart 第3話

その笑顔を見るたびに、私は胸が張り裂けそうになる。






「ここも分かんなーい」

「だからこれは…」

あの日から俺はさくらと時間を過ごすようになっていた。貴重な休日に人に会うのは嫌だったなんて、今は昔のことだ。

「ったく、少しは自分でやれよ」

「現役のお医者さんがいるのに使わない手はない!」

今日も俺はさくらのレポートを手伝っている。

「なんだよ」

さくらが俺の顔をまじまじと見ている。

「何か顔についてるか?」

「〇〇さん、最近元気になりましたね」

あの日以降も飛鳥に何度か会えていた。見た目はさくらでも、俺はそれだけで十分だった。

「別に、そんな事ねーよ」

「分かった、私に会えるのが嬉しいんですね!」

「残念、俺の休日を返してくれ」

さくらは不服そうに頬を膨らませる。俺がさくらに会っているのは飛鳥に会えることを期待しているだけじゃない。

「女の子を傷つけるなんて…罰としてレポートやってください!」

「それ今までと一緒じゃん…」

一人っ子の俺に騒がしい妹が出来た気分だった。






「今日はありがとね〇〇」

真っ暗な部屋に明かりを灯す。俺はたくさんの本が入った紙袋、飛鳥は夕食の材料を床に置いた。

「こちらこそ、夕食までご馳走になるしね」

「待ってて、すぐ作るから」

台所に立つ飛鳥。さくらのときよりも安心して見ていられた。


「「いただきます」」

本来なら一人暮らしの寂しいはずの食卓には豪勢な食事が鎮座していた。

「いやぁ…びっくりしたよ」

「何が?」

「飛鳥がこんなに料理出来ること」

「うるさい。素直に美味しいって言え!」

横腹を小突かれる。ここ何年かで一番の夕食だった。

「にしても…これは買いすぎだな」

食事中にふと今日買った本の入った紙袋が目に入った。うん、1回に買う量ではない。

「好きな作家さんの本だから。あ、これここに置いといてね」

「えっ」

「さくらの家に運ぶ訳にいかないでしょ。後、〇〇も読んでね」

正直な話、俺は読書が苦手だ。文字とは相性が悪いらしい。

「そんな顔してもだめ。感想、共有したいから絶っ対に読んでよね」

前にも同じような事を言われた。その時は適当に理由を付けて逃げてたっけ。

「頑張るわ」

「絶対だからね」

飛鳥がずっと近くにいる。この時はそんな気がした。


夕食後は2人で映画を見た。今日の予定はこれを見終わると終わってしまう。

飛鳥は俺の足の間に座った。頭の位置が俺の顎置きにピッタリだ。

「実際こんなことあるの?」

「いや、ないな」

映画に対して2人でなんやかんや言いながらも楽しい時間を過ごしていた。

しかし、和やかな雰囲気は最後までは続かなかった。


『人は死んだら生き返らない。その最期の時に“もう1回“はないんだ』

画面の中では医師が少女に諭していた。

後頭部を殴られたような衝撃が走った。もう1回はない、そんなの当たり前だ。でも…

飛鳥も俯いていた。俺はそっと手を握った。

その後すぐに映画は終わった。時刻は22時を指していた。

「面白かったな」

沈黙を破るために口を開く。実際、映画は面白かった。

「うん。あっ、そろそろ帰るね」

「送ってくよ」

重い空気感のまま俺たちは身支度を整えた。

玄関を開けると心地よい風に吹かれる。夏の足音が聞こえた。

沈黙の夜は2人でも孤独を感じる。響く足音がそれを助長させた。

右手の温もりは飛鳥のものと言えるだろうか。そんなことを考えていた時だった。

「〇〇…はさっきのどう思った?」

「…」

すぐに言葉が出なかった。俺の頭には上手く返せるだけの引き出しが無かった。

そして、やっと見つけた俺の答えはとてもチープだった。

「俺もそう思う。けど…けど今は飛鳥と一緒にいたい」

本質的な答えにはなっていない。我ながら情けないものだ。

「ありがとう。私ももっと一緒にいたいよ」

手を握る力が強くなった気する。月夜に照らされた飛鳥の表情はどこか寂しそうだった。





「お前も明るくなったよな」

ついに職場の先輩ににまで言われる始末だ。

「まぁ慣れてきましたからね」

原因は飛鳥だ。飛鳥のおかげで俺の生活に明るさが戻ってきたんだ。

「慣れるってお前ここ地元だろ。ほら、回診行くぞ」

的確に突っ込まれると返しに困るな。俺は白衣に袖を通した。


その日、俺の担当している患者が一人亡くなった。この仕事をしている以上、人の死から目を背ける訳にはいかない。

それでも慣れることはない。患者が亡くなった時、俺は必ず屋上に行く。一人になる時間が必要なんだ。

「何しょげてんだよ」

背後から尻に衝撃が走る。振り返ると先輩がいた。

「あっ…お疲れ様です」

流石に元気は出ない。先輩の明るさが今は鬱陶しく思えた。

「娘さん、泣いてたな」

ベッドサイドで項垂れる少女の背中、その光景が目に焼き付いていた。

「お前は全力を尽くしたさ」

そう言うとタバコに火をつけた。吸うかと聞かれたが、生憎タバコは嫌いだった。

色々な事が頭を巡っているせいで今日はなかなか気が晴れない。

「やっぱ慣れないっす」

「慣れてる医者なんていねーよ。救えなかった患者のことはみんな覚えてる」

先輩は大きく煙を吐いた。それは小さな雲のように空を漂って消えた。

「少し付き合ってくれよ」

そう言うと先輩は話を始めた。



あれは俺が研修医の頃、今から6年ほど前のことだ。

8月の終わり、まだ暑い夏の昼過ぎに1人の急患が運ばれてきた。

「海岸で溺れ、意識無しです」

「挿管の準備して。患者さん移すよ」

1.2.3の掛け声でストレッチャーからベッドに移す。その時、部屋の外からこちらを見る1人の少女が目に入った。

その時はバタバタしていて、再び気づいた頃には少女の姿は見当たらなかった。

不安そうにこちらを見る純粋な目、不安と恐怖が入り混じったその目を俺は今でも覚えている。


ピーーーーーッ

無機質な音が病室に響き渡る。俺は彼女を救えなかった。

「手は尽くしましたが、力及ばずすみません」

傍ではご両親が手を握りながら泣いていた。娘の死を簡単に受け入れることの出来る親はいない。

病室のドアが開く。そこには先程の少女が立っていた。

少女の手から荷物が落ちる。目に大粒の涙を浮かべながら震えていた。

「嘘だ…嘘だ嘘だ嘘だ…」

人の死を受け入れるのは大人でも難しい。幼いなら尚更だ。

「私が…私が死ねばよかったんだ…私のせいで…私のせいで…」

少女はパニックに陥っていた。そして、そのまま病室から走り去ってしまった。

少女の捜索が直ぐに始まる。俺はもしやと思い屋上へ向かった。

屋上の扉を開けると、まだ暑い夏の夕暮れの風が吹き付ける。少女は遠くを見つめていた。

「少しは落ち着いたかな」

隣に立つ俺を大きな瞳が見つめた。その純粋な瞳はまだ涙を含んでいた。

「私のせいなんです。私が…」

少女は言葉を詰まらせると俯いてしまった。柵を握った手に力がこもっていた。

「君のせいじゃない。救えなかったのは俺の力不足だ」

普通ならこんなことは言わない。でも、この時は自分の力不足を痛感させられた。

少女は何も答えなかった。


「君はあの彼女の分まで生きなきゃいけない」

柄にもないことを言ってしまった。この子には気休めにしかならない言葉、それでもかけないよりはマシだろう。

「…私に…私にその権利があるんですか…」

弱々しく紡がれた言葉は目の前の少女の自責の重さを代弁しているかのようだった。

「君にしかないんだよ」

少女は顔を上げた。頬には涙が伝った線が見える。

「ありがとうございます…」

まだ本調子には見えなかったが、可愛らしい笑顔を浮かべていた。

「人生は1度きり。その気持ちを忘れないでね」

今日は終始カッコつけてしまった。まぁこんな日があってもいいか。



「今日の娘さんの姿があの時の少女に重なったんだ」

先輩はどこか懐かしく、どこか悲しそうに見える。

そして俺には心当たりがあった。その時に亡くなった海で溺れたその人に。

「残された人は背負って生きるしかないんすね」

先輩の話の少女に何故か今の自分を重ねていた。

「それは違う。背負うんじゃなくて乗り越えるんだよ」

先輩はまた煙を吐く。その煙は清澄な空に溶けていった。

「でも俺は…」

いつの間にか自分の事のように話していた。

「お前が死んだ時、大切な人にそうして欲しいか?」

大切な人…頭にふと顔がよぎる。

「思わないっすね」

「そういう事だ」

そう言うと先輩は通用口に向かって歩き出した。

俺の中でも何か答えが出た気がした。ありがとう先輩。

それともう一つ気がかりなことがあった。自分のことを責めていた少女は今どうなったのだろうか。

いつか会って話をしたい。そう強く思った。




そんな1日の仕事が終わった。今日は飛鳥との約束がある。

8月の夜はまだ暑い。あれから飛鳥とは何回か会っていた。飛鳥に会えて嬉しいという純粋な感情に落とされた一滴の絵の具。それは溶けて綺麗な模様となっていた。

「お、お待たせ」

駅前で待つ飛鳥。遅い!と頬を膨らませて怒られた。

お詫びとして美味しい夜ご飯をご馳走した。まぁ遅れずとも結果は一緒だったと思うけど。

「美味しかった!ありがとう〇〇」

やっぱり飛鳥と過ごす時間は楽しかった。気がつけばもう家の前に着いていた。

「よかった。じゃあ…またな」

ハグをして俺は飛鳥に背を向けた。いつも通りの別れ際だ。

しかし、この日はこれで終わらなかった。


「どうした飛鳥?」

背中に飛鳥の温もりを感じた。外でいちゃつく性格じゃないのは俺が一番知っている。

「〇〇…待って…グスッ」

鼻をすする音が聞こえる。束の間の静寂が訪れた後に飛鳥は続けた。

「〇〇に…〇〇に会うのは次で最後にする…」

鼻をすすりながらしっかりとした声で飛鳥は言い切る。不思議と悲しいという感情にはならなかった。

晩夏の夜に立ちすくむ俺たち。季節を先取りした鈴虫の鮮やかな音色が耳に残った。


fin.


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