見えないままで理解しよう

人間の科学の歴史は、
総じて「見える化の拡大」と言ってもいいと思う。

見えないものを見たい、
誰かが見ても同じように。

再現性、
可視化、
定量化、
これらが「科学的」と思われる条件となる。

見えないものを見えるようにする、
かつ他の人にも見えるようにするのは、
確かに価値がある。

しかし、もう一つ大事な視点がある。
いや、「もっと」大事な視点かもしれない。

それは「見えないもの」を、
「見えないまま」理解することである。

何故かというと、
宇宙のほとんどは見えないのである。

そして、
永遠に見える化ができないものも存在し得る。

仮に永劫の先に全てが見えたとしても、
少なくとも人間の寿命からすると、
一人の人生で世の中の全てが見えるのは不可能である。

時間が足りないし、
ある程度その時代の科学の発展にも依存するから。

何故見えないまま理解する必要があるか、
少し分かりやすい例で説明する。

Q:あなたは自分のことを理解しているのか?

この質問に対して、
「当たり前だろう」とみんな思うよね。

では、
それを「科学的」に証明しろ、
と言われたらできるのか?

「自分を理解していること」は、
 科学的に証明できない。

じゃ、
あなたは自分を理解していないってこと?
あなたは嘘をついているってこと?

この例は他人に対しても言える。

Q:あなたは相手のことを理解しているのか?

人を理解するための条件と方法は何でしょうか?

もちろん人それぞれだが、
少なくとも第三者から教えられるものではないと思う。

治療や多様性といった大義を元にしたラベリングシステムから生まれた様々な概念は、むしろ人々の心を分断してしまう。

人を理解するために「科学的思考」は、
本当に必要なのか?

分かりづらいかもしれないが、
一旦、今回の記事はここまで。

ちなみに、多様性関連マガジンはこちら。


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