天国と地獄
マタイ 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
今日は、天国と地獄という世界、もしくは概念についてお話をしたいと思います。宗教に興味を持っている人なら、天国と地獄について考えたことがあるかもしれません。
· 天国と地獄とは、どんなところだろか。
· キリスト教を信じれば天国に行き、信じない人は地獄に行くというのは、あまりに酷いではないか。
私たちは普段、天国と地獄などについて話しませんが、ぼんやりとは知っています。時々、マスメディアでは、天国を見てきたという人が現れます。地獄を見てきたという人は一人も聞いたことがありません。しかし、人間は通常、天国と地獄は死なないと分からないようになっています。特定の宗教を信じていなくても、天国と地獄というようなものがあると信じています。この世で良いことをしていれば、死んだあと、天国、極楽、パラダイスと呼ばれるような場所に行き、悪いことをしていれば地獄に行くということは知っています。そして、天国と地獄にかんして、こんなイメージを持っているんじゃないかと思います。
私はムスリムの友人がいますが、その人はこう言っています。イスラム教の考え方はこうです。人間の生前の行いの51%以上が良い行いであれば、パラダイスに行き、49%以下であれば、地獄に行くそうです。そこから先は聞きませんでしたが、ということは、イスラム教を信じただけでは天国にいくということではなさそうです。
さて、キリスト教の天国と地獄に戻りましょう。さて、まず地獄からです。どうも多くのクリスチャンは地獄と言うと、罪びとや悪人たちが火に焼かれるというイメージを持っています。しかし、聖書は地獄や地獄の様子を描いている箇所はほとんどありません。では、なぜそのようなイメージを持っているのでしょうか。
有力な説は、14世紀のダンテの神曲という著作に由来するというものです。神曲にはこのような絵がありました。神曲に描かれた地獄の様子が中世のヨーロッパに広がり、現在にいたります。
しかし、ダンテの神曲の前からこのようなイメージがありました。私が知っている限りでは、4世紀から5世紀に活躍した神学者アウグスティヌスも、不信仰者は火で焼かれるのではないかと推測してます。また、12世紀には、このような絵が描かれています(Herrad von Landsberg)。
問題は、聖書は地獄をこのように説明しているかということです。そもそも、地獄というものの存在を聖書は語っているのかということです。今日のみことばをもう一度読みましょう。
Matt. 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
この「ゲヘナ」が地獄だという人もいます。ゲヘナというのは、昔のエルサレムにあったゴミ捨て場のことです。よく知られている解釈は、人間は神を恐れなければならい、なぜなら、神はご自分に従わない人間をゲヘナという地獄に送る方だからだというものです。
この「天国と地獄」という概念は、完全に聖書にかかれているかのように信じられています。伝道に熱心な教会では、こんな風に言われることがあります。「もし今日あなたの親友、つまりイエス・キリストを信じていない親友が死んだとします。彼らはどこに行きますか?あなたはどう感じますか。」これを言い換えると「今日、クリスチャンではないあなたの親友が死んだら、その人は地獄に行きます。だから、あなたの友達に伝道して、布教して、彼らをクリスチャンにしなさい。そして、教会につれてきなさい」となります。その根拠となる聖書のことばが、マタイ10:28だそうです。
しかし、ここでイエスは福音を語ろうとする弟子たちに言っています。福音を語ろうとするとき、弟子たちは迫害を受けるかもしれません。最悪の場合、殉教するかもしれません。イエスは、マタイの福音書の他の箇所でも、弟子たちが迫害を受けることを語っています。そして、「むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」と言います。これは、イエスは、「神こそが、私たちの身体も心もすべてのことをご存知だ」と言っているのです。だから、その神に任せて福音を伝えなさい。神は、人間とは違って、あなたのことをすべて知っているし、迫害者を前にして、あなたが恐れていることも知っている。多くの雀たちよりも、はるかにあなたのことを愛している。ということで、ここで地獄とはなにかということを教えているわけではありません。
他のみことばもみてみましょう。
「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」(マタイの福音書25章41節)
「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」(マルコの福音書9章47~48節)
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3章36節)
これらも神のさばきを示しはいますが、「イエス・キリストを信じない者が死後地獄に行く」というという意味ではありません。神の裁きイコール地獄というのはあまりに短絡的です。
では、聖書は「天国と地獄」について何を言っているのでしょうか。端的に言うと、聖書は「天国と地獄」について、ほぼ何も言ってはいません。イエス・キリストが強調したことは、天の王国・神の王国が地上にやってくるということです。
主の祈りはこのように始まります。
「天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。」
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りですが、クリスチャンが受け身になって、神様は勝手にやってくださるということを期待する必要はありません。この神様の働きに、クリスチャンが参画します。教会はしばしば「伝道集会」という礼拝をやって、さきほど申し上げた「あなたも地獄に行かないように、イエス・キリストを信じてください」というメッセージを語ります。そうではない。福音とは、「神はご自身の働きに参加する人々を招待していて、その働きの見本を見せくれたのがイエス・キリストです。そのキリストに信頼する人は、神の国を共に作り出す人です。だから、罪も許されるんですよ」ということです。
では、イエス・キリストを信じない人はどうなるのでしょうか。その答えは、私にはわかりません。
ここで、「神の愛」という考え方は重要になります。あるクリスチャンは、クリスチャンがあらわす「愛」とは、どのように思われようと、ノンクリスチャンはどこまでも罪びとであることを語り続けることだと考えています。たとえば、LGBTQの人々に示す愛とは、「LGBTQであることが罪であることを上手に教えて、神様にお詫びをさせること」であると無意識に考えます。LGBTQの方々の苦しみや思いに耳を傾けること以上に、自分たちが信じる「天国と地獄」の教えを「やさしく教え込む」ことが「本当の愛」だと考えます。それは、独善であり、傲慢であり、控えめに言うならば、福音を歪曲しています。
キリスト教の教え、キリスト教の福音は「天国と地獄」ではありません。そんなことは全くありません。イエス・キリストの愛が、家庭で、学校で、会社で、人間関係の中で、地域の人々の関係の中でどのように現わされるかが福音なのです。その愛を表す力を与えてくださるのが神です。
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