見出し画像

自由になると、淋しいのかい (吉田拓郎を聴きながら①)

ヨハネ 8:32

「自由」というのは、もしかすると人間の歴史の中で受け継がれてきた大きなテーマかもしれません。
·         抑圧からの自由
·         宗教からの自由
·         神からの自由
いろいろな束縛から自由になりたい。人間の叫びです。「自由」は聖書にとっても重要な概念です。聖書は「解放」をテーマの一つとしています。ですから、ユダヤの人々にとって、ユダヤ民族をエジプトから解放したモーセという人は特別です。旧約聖書では、ユダヤ人は幾度となく敵に攻められ、あるいはエジプトやバビロニアに囚われます。神はそのようなイスラエルを敵の手から解放してくださるというのが重要なテーマです。これは、新約聖書にも続くテーマです。新約聖書の時代、イスラエルという国が存在しました。しかし、本当はローマ帝国の属国としてのイスラエルです。ですから、当時、ローマ帝国から独立するために立ち上がるイスラエル人たちもいました。
1960、70年代、日本はフォークソングブームを迎えました。戦後から15年、20年とたちました。しかし、当時社会を動かしていた人たちは、戦前生まれの人たちです。戦前の価値観、個人よりも社会が優先される価値観、若者が自由を求めて声を上げました。男性が髪を伸ばし始めました。それが、自由の象徴の一つでした。他の人とは違う自分の道があると信じました。吉田拓郎という人は、その中で、若者の代弁者としての地位を確立します。
彼の歌の中で大好きな歌の一つで「どうしてこんなに悲しいんだろう」という歌があります。これは、彼がデビューした翌年1971年に発表された曲です。こういう歌詞です。
拓郎さんは、誰に干渉されることもなく、一人になり空を見上げる。「これが自由だ」と感じる。しかし、次第にその自由さは、拓郎さんに不安を与えます。自由なのに、生きていることのむなしさを感じます。これが自由なのか?自由になると淋しくなるのか?そう問いかけます。
NTライトという神学者は、私たちの世界には正義を求める叫びに身いていると言います。私たちの周りには正しいとは思えないことがたくさんあります。中学や高校に行けば、信じられないような校則が存在し、学生さんだけでなく、大人たちも、そんなのおかしいと思っています。そんな愚かな世界から自由になりたい、正義はどこにあるんだと叫んでいます。
今日の話は、第1に自由にいきるということ、次に、自由に生きることの難しさについて、その困難な自由にイエス・キリストが生きたということを話したいと思います。
 
聖書の世界に戻りましょう。
イエスはユダヤ人たちに言います。「真理はあなたがたを自由にします。」真理とは、「キリストが神の王国の王であり、この世を支配していのはキリストです。キリストは私たちを罪の世界から私たちを解放するお方であることです。」しかし、33節で、ユダヤ人たちは言います。「私たちは誰の奴隷になったこともない」しかし、キリストは言います。「あなた方は罪の奴隷だ」と。
実は、ヨハネの7章と8章は面白いストーリーの構造をしています。7章10節で、イエスは仮庵の祭りというユダヤの祭りでエルサレムにいます。そして、そこでユダヤの指導者たちと論争をします。そして、8章になると突然、姦淫を犯した女性の話になります。
ある女性が姦淫の罪を犯したということで、道端に引きずり出され、石打ちにされそうになります。そして、民衆は言います。「律法によれば、こういう女は石打ちで殺さなければならないことになっています。イエス様、あなたはどうしますか」イエスは悪意の民衆に試されています。この民衆にイエスは有名な言葉を言います。
8:7 「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
石打ちをしようとしていた人たちは、一人一人去り始めます。8章の12節で改めて、「イエスは再び人々に語られた」と続きます。これまでの研究によると、この姦淫の女性の話は、7章52節と8章12節の間に挿入されたと考えられています。
ここで、想像してみてください。もしあなたが、この女性を前にしてどうするでしょうか。そして、一つのみことばを思い出してください。
マタイ9:13 「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」
確かに、モーセの律法によると、姦淫の女性は石打ちにされることになっています。あなたがユダヤ人ならどうするでしょう。私たちが選択できるシナリオを考えてみましょう。
①   女性を石打にする。
②   いやいやちょっと待て、イエスが言うように自分が石打にされるような罪がないか考えてみよう。
仮に②を選択した場合、何があなたに起こるでしょうか。そんなに想像には難くないでしょう。あなたはユダヤ人社会から切り離され、友人たちは去って行くでしょう。
この女性のエピソードが先ほど説明した32-33節に続きます。イエスはユダヤ人たちに「あなたは罪の奴隷だ」というのです。何故でしょうか。37節でイエスはユダヤ人に言います。「あなたがたはわたしを殺そうとしています。」あの女性を殺そうとした民衆と同じように、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとしているのです。
イエスがこの世界にきたのは、そのような人々を罪の世界から解放するためです。いけにえを捧げることだけを考え、モーセが与えた律法の字面をおうことにだけ汲々として、誠実さ、社会正義、あわれみを脇に置いてしまう、そういう世界からの解放です。本来、クリスチャンとは、その世界から解放された人々です。解放されて呼び集められたところを教会といいます。
しかし、私たちは知っています。今わたしたちは教会の中で同じような出来事をみてはいないでしょうか。聖書の字面を追うことだけが、クリスチャンの生き方とは信じていないでしょうか。私たちはあまりにも聖書の言葉を非人間的な物質と見てはないでしょうか。
今、日本のキリスト教会ではLGBTQの方々への議論が沸騰しています。姦淫で引き釣り出された女性の前に立って、自由に神の愛を語り、彼女を守ろうとすれば、あなたはすべてを失います。教会で、「LGBTQであることは、罪ではない」はたまた、「女性こそ、教会のリーダーにふさわしい」などと言うと、あなたは行く教会を失うかもしれません。牧師であれば、教会は分裂し、あなたはもはや牧師という仕事を失うかもしれません。
「カミングアウトして、自分の思った通りに生きたらいい」と人は言います。でも、それは世間を敵に回して生きてみなさいと言っている。
教会が伝統的に教えてきたことから離れ、その束縛から離れ、自由に愛やあわれみ、誠実さ、社会正義を訴える時、あなたが表現した自由は、あなたを悲しませるかもしれません。自由のために失うものも大きいのです。
世間の常識が外れても、教会の伝統から外れても、愛に生きる生き方がある。イエス・キリストは、そういうお方だった。だから、十字架にかかって殺された。しかし、復活した。それは神がイエスの生き方こそが本当に死と罪と敵意を滅ぼす生き方、十字架だと宣言したからです。
自由になると、自由にいきると淋しくなる。でも、寂しくならない、寂しくさせない場所がある。それが天満レインボーチャーチでありたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?