「妻たちよ、夫に従いなさい」(ちょっと何言ってるのかわかんないんですけど)(2022年11月20日)
エペソ 5:21-33
Eph. 5:21 キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。
Eph. 5:22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。
Eph. 5:23 キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。
Eph. 5:24 教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。
Eph. 5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。
Eph. 5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
Eph. 5:27 ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
Eph. 5:28 同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。
Eph. 5:29 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。
Eph. 5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
Eph. 5:31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
Eph. 5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。
Eph. 5:33 それはそれとして、 あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。 妻もまた、自分の夫を敬いなさい。
申命記 23:2
Deut. 23:2 不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ主の集会に加わることはできない。
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エペソ人への手紙は、紀元1世紀のギリシャ・ローマ世界の文化の中で書かれました。ある神学者によると、当時の結婚では、妻は夫より12~15才ほど若く、夫に比べて教育程度も高くはありませんでした。父親の所有物であり、結婚すると夫や夫家族の所有物として扱われていました。男女平等が当たり前のように考えられている21世紀でも、この感覚はほとんど変わっていません。
ある教会では、社会でも行われていつ女性抑圧を正当化するために、21節や24節を用いています。そして、この23節にある「夫は妻のかしらなのです」というところから、「夫は、父は、家庭の霊的リーダーだ」という言説を信じている男性もいます。さらに、夫・妻という部分が拡大し、女性・男性の間に上下関係が無意識のうちに構成され、強化されます。
「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22)が読まれる時、ある女性たちは驚きます。怒ります。失望します。恐ろしくなります。男にはわかりません。このみことばの恐ろしさは。
ある牧師さんの話ですが、彼は私生児として生まれました。青年期、このことが彼の人生に大きくのしかかりました。申命記23:2にこう書かれています。
「 不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ主の集会に加わることはできない。」
今の言葉で言うならば、「不倫の子はクリスチャンになれない。その人の子孫も永久にクリスチャンにはなれない。」
あるクリスチャンはこんな風に言います。旧約聖書の儀式的な命令、たとえばいけにえを捧げるなどの命令は、もはや効力はない。でも、道徳的・倫理的な命令は今でも有効だ。さて、申命記23:2はどうでしょうか。
「聖書は誤りのない神の言葉」だと信じているとしたら、私生児として生まれたこの牧師さんはどうなるのでしょうか。
1コリント16:13はこう言っています。
堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。
「雄々しく」という言葉は、以前は「男らしく」と訳されていました。「男らしく」って何?って言いたくなります。「雄々しく」という日本語に訳されたとしても、「雄々しく」という言葉と宗教的な信仰がどうつながるのかよくわかりません。
私たちは、聖書を読むとき、私たちなりの解釈をします。多くの人にとって、「 不倫の子は主の集会に加わってはならない」という旧約聖書のことばは全く意味をなしません。実際どうでもいいと思っています。しかし、エペソの5章は、そうはいかないようです。
エペソ 5:21-33は、夫婦の関係についての言葉が続きます。
22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。
24 妻もすべてにおいて夫に従いなさい。
25 夫たちよ・・・あなたがたも妻を愛しなさい。
33 自分の妻を自分と同じように愛しなさい。 妻もまた、自分の夫を敬いなさい。
「従いなさい」「愛しなさい」「敬いなさい」と命令形があります。三つの命令形はそれぞれ違う単語で、それぞれに異なる意味があります。ここで、考えたいのは、「愛しなさい」と「従いなさい」です。「敬いなさい」は「恐れる」という時にも使います。私が「愛しなさい」「従いなさい」という言葉を解釈する時に大事にしていることがあります。それは、辞書的な意味も大切ですが、その言葉をイエス・キリストはどのように体現したのかということです。
マルコ福音書の10章45節で、イエスはこう言っています。
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
「愛すること」「従うこと」「敬うこと」、すべて人に仕えることです。これがキリストが表された愛です。夫も妻も互いに仕え合うことが求められます。自分を犠牲にして他者に仕える愛です。神の国に序列や上下関係などないのです。
ここで思い違いをしてはいけません。男も女も、夫も妻もお互い様というわけではありません。「従いなさい」「愛しなさい」「敬いなさい」という言葉が、単に個人間の関係で終わらせてはいけません。
現実には男女差別が、教会の内外に存在し、世界を覆っていることをしっかり認識しなければなりません。結婚すると女性は子を産むことが求められ、育児を求められます。会社に勤め始めるとガラスの天井が待っています。管理職についている女性が男性中心の企業文化に悩みます。そして、女性に頑張らせることによって、問題解決を図ろうとします。
「愛すること」と「従うこと」ことが辞書的な意味では異なり、「従う」という言葉が含意している「序列」と「暴力性」に多くの女性に傷つけていることを忘れてはいけません。教会に女性のリーダーが驚くほどに少ないことがその現実です。男性が支配する教会という世界に入り混むのは困難です。ですから、「仕えることを心から学ぶべきは女性ではなくむしろ男性なのです。」
22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。
という言葉が、みなさんの負担になるなら、「愛しなさい」と読みかえてもよいでしょう。「従うこと」も「敬うこと」も、すべては「愛」なのです。そして、敢えて言ってみましょう。「夫たちよ。主に従うように、自分の妻に従いなさい。」これは、非聖書的でしょうか?
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