マリア、きみは一人じゃない!(クリスマスまで1週間)
ルカ 1:5-56
あと一週間でクリスマスがやってきます。今日の聖書の箇所には3人の人物が出てきます。ザカリヤ、エリサベツの夫婦、そしてマリアです。ザカリヤ、エリサベツの夫婦はエルサレムに、マリアはガリラヤのナザレという町に住んでいます。ザカリヤとマリアに、天使ガブリエルが現れます。そして、すでに高齢になったザカリヤに、「妻のエリサベツが子供を宿します。その子供をヨハネと名付けなさい」と言います。ヨハネの誕生は、ザカリヤ、エリサベツにとっての喜びとなります。子供がいない夫婦、特に妻エリサベツにとって大きな栄誉となります。
そして、なんと言っても、ここでの主役はマリアです。マリアはエルサレムから約100キロ離れたガリラヤのナザレという町に住んでいました。マリアは許嫁(いいなずけ)のヨセフと結婚前でした。そのマリアにも天使ガブリエルが現れて言います。
1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
私たちはこの箇所を、「処女マリアが聖霊によってイエスを宿す」というおなじみのストーリーとして読みます。マリアは戸惑いながらもこう言います。
1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
さて、このマリア、この時代で結婚する年齢というと、12歳から16歳くらいだったと言われています。とは言え、結婚したらすぐに子供を産むというようなことではなかったでしょう。しかも、マタイの福音書によると、ヨセフは「ひそかに離縁」しようと考えたほどです。そんなまだ子供と言えるマリアは何故こんなことが言えたのでしょうか。
今朝の聖書の箇所では、2つのことに注目したいと思います。第一は、神の恵み、神の福音の知らせが、まず女性から始まっているということです。マリアとエリサベツに子供の誕生が告げられ、マリアとエリサベツが出会い、二人は神を誉めたたえる歌を歌います。まだイエスが生まれる前から福音の物語が始まっています。2人の女性の讃美から始まります。そして、イエスの復活の最初の目撃者は、「マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たち」と書かれています。男性中心社会の時代の中で、神の国の到来の真の目撃証言は女性たちから始まりました。そして、このことは次の視点にも重要な意味があります。
第二の点は、エルサレムとガリラヤという地域の関係です。ここがマリアの「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」という発言の鍵となります。ここでいうおことばとは、生まれてくる「子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれる。そして、神である主は、子どもにその父ダビデの王位を与える。その子はとこしえにヤコブの家を治め、その支配は永遠に続く」というものです。
エルサレムは、ユダヤ人にとって、政治、経済、文化、宗教の中心です。ルカの福音書は、エルサレムにいるザカリヤの話から始まります。そして、ルカの福音書は、エルサレムでイエスの昇天を目撃し、喜びに溢れる弟子たちの描写で終わります。ルカの福音書はエルサレムを重視しています。
しかし、イエスの神の国運動はガリラヤから始まり、エルサレムに向かいます。イエス・キリストが生まれたのは、紀元前4年と言われています。当時ガリラヤを支配していたのはヘロデ大王でした。この頃には抵抗運動が頻発したそうです。紀元4年に、ヘロデ大王は亡くなりますが、代わって弟のヘロデ・アンティパスがガリラヤを支配します。ガリラヤに対するヘロデ一族、ローマの経済的搾取が過酷であったことが、抵抗運動の理由であったと言われています。しかし、その抵抗運動はことごとく敗北に終わります。そして、同時にマリアやヨセフ、弟子たちのようなガリラヤのユダヤ人たちは、エルサレムの人たちからは、「半ユダヤ人」半分だけユダヤ人、宗教的にきちんとしていない人たちとして蔑まれていました。
この時代イスラエルの社会経済構造は、3つの階層に分けられました。一番上にいるのはお金持ちで権力をもっている人々、中間はありません。2番目に位置するのは貧困層です。イエスの父、ヨセフのように大工仕事をしていた人、農民などがそうです。そして、最下層にいるのは、食い扶持を持たない物乞いをする人、不浄の病と言われたような人々です。下層、最下層に属する人々には希望が何もありません。もう自分たちでこの状況を変えることはできません。当時ユダヤ人の間では、メシアの到来を今か今かと待ち望んでいた時代です。ガリラヤの人々の間では、その願いはエルサレムよりもはるかに熱かったかもしれません。
福音書を読んでいると、イエスの誕生は牧歌的でほのぼのとした雰囲気さえ感じますが、実際は殺伐とした社会環境だったと考えられます。そのような環境の中で、マリア、イエスは生きてきました。イエス・キリストが生まれたのは、紀元前4年頃、マリアは10代半ば、彼女は家族や周囲の人々を見ながら、ガリラヤが置かれている状況を理解していたことでしょう。マリアの賛歌と呼ばれる歌の中でマリアは宣言します。
1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、
心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、
低い者を高く引き上げられました。
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、
富む者を何も持たせずに追い返されました。
「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と話す10代半ばのマリア。この過酷な状況で生きてきたマリアが、神を讃える歌の中で、神を正義と公正を行ってくださる方として賛美するのは、決して不思議なことでありません。しかも、ユダヤ人の間では、メシアの到来を今か今かと待ち望んでいた時代です。マリアは決して、男性の保護を受けなければならない弱い女性として描かれてはいません。様々な抑圧を生き抜いた女性です。公正と平和を望んでいた一人の若い女性です。片田舎のナザレの若いこの女性は、天使の言葉を信じ、神に信頼をおいて、自分にこれから起こるであろうネガティブな結果を大胆に、そして覚悟を持って受け入れます。正式な結婚の前に身ごもってしまった女性として、半ユダヤ人として、貧困にあえぐ人間として、神のみこころを受け入れます。
このマリアの覚悟を受け入れたのが親類エリサベツです。
42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。
44 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
エリサベツの言葉は、神への賛美と共に、マリアの決断に寄り添う言葉です。マリアにとって大きな励ましになったことと思います。
福音の知らせ、福音の働きは、そのようなところから始まりました。キリスト者というのは、そのようなマリアと共に立ち上がり、どこまでも神に人に仕える人々です。そして、ガリラヤの人々の苦しみを共にし、希望を語り、連帯する人のことです。今も福音はそのようなところからはじまります。ガリラヤの苦しみを、今も抑圧されている人の心を私たちの心にしたいと思います。それがイエス・キリストの心でもあります。
天満レインボーチャーチは、ガリラヤの苦しみを抱えながら歩む教会でありたいと思います。このライブを見てくださっているみなさん、あなたは決して一人ではありません。マリアとともに福音の道を旅する私たちは、あなたと共にいます。
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