時は来た!(伝道者の書 3:1-14)
今日は伝道者の書からお話をします。ライブ配信では新改訳聖書という翻訳を使っています。新改訳聖書とは別に、日本聖書協会が出版している協会共同訳という翻訳があります。新改訳では「伝道者の書」という名前ですが、協会共同訳では、「コヘレトの言葉」となっています。今日は、この本の著者をコヘレトと呼ぶことにします。
「すべてのことには定まった時期があり」と始まり、様々な時をリストのようにつづっていきます。そして、11節のことばに、私たちはうっとりするかもしれません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
しかし、この「コヘレトの言葉」の始まりはこうです。1章2-3節。
「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は苦労するが、すべての苦労は何になろう」(協会共同訳)
空の空。伝道者は言う。 空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、 それが人に何の益になるだろうか。(新改訳2017)
この「空しさ」こそが、このコヘレトの心を包んでいます。今日読んだ個所は様々な解釈ができます。ここだけでなく、聖書は本当に様々な解釈がなされています。ある部分は解釈にコンセンサスがありますが、コンセンサスがないような個所もあります。「コヘレトの言葉」は解釈が難しい本だと言われています。
「空しさ」に覆われているコヘレトの心の中を覗いてみると、きっと3章はそんなには美しくはない。「すべてのことには定まった時期があり、」あんな時があり、こんな時がある。それもすべて神が決めているじゃないか。ここで大きな問題が生まれます。神がすべてを決めているなら、一体私は、人間は何なのだろうか?
1節から8節までの美しく聞こえる言葉は、9-10節でコヘレトは言います。
3:9 働く者は労苦して何の益を得るだろうか。
3:10 私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。
コヘレトは訴えます。「神が与えたというその仕事をしたからといって、人間に何の利益があるのか。こんなに苦労するのはなぜなのか。」
そのあとにコヘレトは言います。
3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
ある神学者は言います。「「美しい」という言葉が使われているけれども、本当に美しいものを賞賛するようなパッションに欠ける」と。そして、コヘレトは続けます。
3:12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。
3:13 また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。
「人間の喜びは生きている間のものだけなのだ。これも神の賜物なのだろう」ここに喜びや美しさを表現するパッションはありません。こんな感じです。「人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがない。まあ、それが神様のからの賜物なんやけど。」コヘレトは、人生のわずかな喜びが神の賜物と分かっています。苦労する割には、わずかなもので我慢しなければならない。
こんなことを言うと、「不信仰だ!」と言われるでしょう。しかし、この書物を覆っている「空しさ」という言葉に、私たちはどこか同意できないでしょうか。起きて、学校行って、仕事に行って、家事をこなし、育児は終わりがないように感じる。そして、寝て、また次の日がやってくる。クリスチャンとして、神の臨在をなるほど確かに感じながら、いや感じなくとも神がそばにいてくださると信じている。しかし、毎日が同じように過ぎていく、クルクルと毎日が同じところにいるように感じます。
伝道者の書が編纂されたのは、紀元前250年頃だと言われています。バビロン・ペルシャの捕囚から解放されて、新しい神殿が建てられてから250年後くらいのことです。アレキサンダー大王の支配が終わり、イスラエルはまだセレウコス朝シリアの支配下にあります。一体これからイスラエルはどうなって行くのか。まだ国は再興されません。何か希望があるのか?どこに希望があるのか。そんな毎日が続いている紀元前250年です。
伝道者の書の美しい言葉の中に、人生の中のうつろい行く無常観、諦め、虚無感が漂います。聖書は私たちの人生の問題のすべてに答えを与えてくれるわけではありません。神がすべてを支配されている中で、人生とは何か、人とは何かをコヘレトは考え続けます。この書は、その問いについて答えをオープンエンドにしています。読者はそれを神との関係の中で、自分で答えを探さなければならなりません。
そうなると私たちは、途端に迷い始めます。神が私たちの人生の意味を教えてくれるのではなかったら、聖書を読んでも何か答えがでないとしたら、神を信じるということは一体何なのかと不安になります。だれかが答えをくれないとどうして良いのかわかりません。
そこでクリスチャンは、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」という言葉を頼りにします。自分が必要としていたものが、ある時に手に入るというようなことが起こります。それが、自分の願った時にすぐ与えられなくても、最終的にそれが手に入る。そして、言うのです。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。あーそうか、この時が神の時なのだ。自分の都合ではなく、神の時があるのだ」と納得しようとします。その時に、なんとなく神の愛を感じ、感謝する。それでもです。コヘレトが語る「なんという空しさ」を感じることはないでしょうか。必要だと思っているものが与えられるなど、いつも起こるわけではないのです。逆の言い方をすると、自分の人生に必要なものをほとんど与えてはくれない神を私たちは待っているのも事実です。
こんなことを言うと「神様への感謝はないのか」という言葉が聞こえてきそうです。しかし、神への感謝と人生の空しさが、私たちの中に存在するのも事実ではないでしょうか。それこそが、コヘレトが私たちに語り掛けていることです。
そして、苦労や空しさは人によって違います。抑圧されて生きている人には、その「神が良いことをしてくれる機会」が圧倒的に減らされます。日に日に、苦しみは増えます。日々続くマイクロアグレッション。何も変わらない社会構造。ツイッターを見ていると、「女性が行きやすい教会」というハッシュタグを見かけました。女性というだけで、教会に行きにくいと感じるのです。そんな社会や教会に空しさを感じないでしょうか。
私たちは神を完全に頼りして生きるほかありません。しかし、それは受け身に生きる人生という意味ではありません。愛するのに時があるならば、愛のために行動を起こす時があります。その愛のために苦労する時があります。あなたにその思いが浮かぶとき、まさにそれを神の時と言ってもよいでしょう。祈って待つ時もあるでしょう。また、祈る前から走り出す時もあるでしょう。それでも、何か空しさを感じるかもしれません。理解されない空しさ、自分の気持ちが届かない悲しさがあるはずです。その時、またコヘレトのように感じるかもしれません。その一方で、パウロは言います。
1コリント 15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
2023年をあなたの時に、何かに一歩踏み出す年にしてはいかがでしょうか。どんなチャレンジでも良いと思います。「神さまの私に対するみこころは何かな」と思うかもしれません。それは必ずしも、たった一つのものであるとは限りません。またある瞬間にしか、そのみこころが示されないというようなものではありません。断食して、必死に祈らないと現わされないというものでもありません。あなたの時は来ています。目の前にあります。それもまた神の時です。
天満レインボーチャーチは、「女性が行きやすい教会」「LGBTQフレンドリーな教会」「傷ついた人々のための教会」として、今年も歩みを進めたいと思います。私たちと一緒に何かしたい。そういう願いを持っている方がいらっしゃれば、是非声をかけてください。一緒に神の国のコミュニティを作って行きましょう。