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選挙特番 君も選挙に行くのか

皆さん、おはようございます。今日は、参議院議員選挙の投票日です。すでに、投票を済ませた方もいらっしゃるでしょう。これから投票に行くという方もいらっしゃると思います。
天満レインボーチャーチは、LGBTQのための、女性のための教会だと申し上げてきました。私たちの政治的権利を行使するための国会議員を選ぶという大切なイベントで、信じられないほどの差別発言、蔑視発言を見聞きしてきました。インターネットの書き込みよりも更にひどい差別発言、蔑視発言が、選挙運動に名を借りた差別行為が横行しています。私たちの国では、決してそんなことがあってはなりません。
今日は、クリスチャンこそ政治に関わり、選挙にいかなければならないという話をしたいと思います。政治に関わり、選挙に行くことは、単に国民の権利を行使するということ以上のものです。ほんの少し社会を良くするということ以上のものです。政治に関わりことは、キリストの弟子であり、友である者としてのアイデンティティにかかわることだからです。
 
今日の聖書の箇所を読みましょう。
黙示録 7:9-10
その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。 「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、 子羊にある。」
 
 
黙示録 21:4-5
神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである。」すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
 
私たちの世界の終わりに現れる世界とはこういう世界です。「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」そんな世界を想像することができるでしょうか。この世界はどこに現れるでしょうか。この地上です。
クリスチャンでない方、いやそれどころ多くのクリスチャンはこう考えています。クリスチャンは死んだら天国に行く。クリスチャンでない人は地獄に行くと。この世の最後は、この世界の、地球の破滅が起こって、クリスチャンは天国に行くという話が広く信じられています。しかし、聖書は天国や地獄という話はほとんどしてはいません。そして、それはたとえ話の中で使われる描写です。
こういうクリスチャンにとって、一番の関心は罪と罪の悔い改めです。ですから、クリスチャンでないお友達が、自分の罪を認めて、イエス・キリストを信じるととても喜びます。そして、こう考えます。皆が自分の罪を認めて、罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じれば、この世は素晴らしい世界になると。この世の悪とは、私たち人間の罪を全部足したものだという認識です。そんなことはありません。国民の90パーセントがキリスト教の信者になっている国もあります。そこは、夢のような素晴らしい国ではありません。その国では、政治の腐敗は酷く、貧富の差は大きくなっています。こう言うでしょう。「クリスチャンも完全ではないから」と。「クリスチャンも完全ではない」という理由で、明らかな不正行為に行ったり、手を貸したり、不正を見て見ぬふりをしたり、不正行為の恩恵に与るとするなら、クリスチャンであるとは、一体どういうことでしょうか。
クリスチャンは、キリスト教を愛だといいます。神は愛だといいます。イエスは愛だといいます。では、「クリスチャンも愛だ」言えるでしょうか。不完全で、決して立派にではない、その愛を示すことはできるでしょうか。ポストモダンの世界は、「愛」と言われても、「愛」を簡単に信じることはしません。「神が愛」なら、それを見せてくれと言います。皆さんは、「愛」をどう見せますか?
あるクリスチャンは、こう考えます。「愛」とは「聖書に書いてあることを伝えることです」と言います。つまり、「イエス・キリストを信じれば、天国行、信じなければ、地獄行」ということを伝えることだと言います。「相手が不快に感じようとも、これこそ究極的な愛だ」と言います。周りの人たちがどんな人たちか、そんなことには興味はない、ただただ「イエス・キリストを信じれば、天国行、信じなければ、地獄行」を伝えることこそ愛だと言います。そのことを聞かされた人たちは、あなたの愛を感じられるでしょうか。他の人が愛を感じないとしても、「神は喜んでいらっしゃる」と言えるでしょうか。私たちが「愛」と呼んでいるものは、「愛」と理解されているでしょうか?もし、「愛」と理解されない時、一体何が問題なのでしょうか。あなたの「愛」を理解できない人が悪いのでしょうか。
イエスは福音書の中で、ご自分がこの世に来られた理由をこう仰っています。
マルコ 10:45
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
クリスチャンも人々に仕えるために召されています。もちろん、すべてのクリスチャンが仕えることに召されていますが、もし、あなたがシス男性で、多くの特権に恵まれているとしたら、さらに多くの人々に仕えるように召されているのではないでしょうか。イエスは、すでに虐げられているLGBTQや女性が、さらに男性や社会に仕えることを要求されているでしょうか。男性の方で、私たちにはそんな社会的特権など与えられていないと言うなら、それは現実の認識が間違っているか、間違った認識を信じているかのどちらかです。前回、「罪」とは「私たちを罪の中にとどめる宇宙的な力」だと言いました。虐げられているLGBTQや女性を見て、何も感じないなら、それは十分に「罪の虜」になっていて、「悪に加担している」状態だと言っていいでしょう。
 黙示録 7:9では、「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の人々がイエスを礼拝している」と書かれています。これが、新天新地の姿です。完全ではなくとも、日本に住むすべての人々が、人間にとして相応しい生活送っているでしょうか。今立候補している人々や政党は、日本に住む外国の人々が安心して生活できる政策を提示しているでしょうか。最初に言いましたが、外国人差別を声高に叫んでいる候補者はいないでしょうか。
 
黙示録 21:4では、「神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」と言っています。すでに苦しみ、叫んでいる人々に目を留めている候補者や政党はどこでしょうか?政党のマニフェストも完全ではないでしょう。しかし、苦しむ人々に寄り沿おうとしている候補者や政党はどこでしょうか?

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