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ありのままの私を知るということ(2022年10月23日)

詩篇139:23~24
神よ 私を探り 私の心を知ってください。
私を調べ 私の思い煩いを知ってください。
私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て
私をとこしえの道に導いてください。
 
先週の話の続きです。スピリチュアリティの4回目です。トランスフォーメーションについてお話しします。トランスフォーメーションとは、キリストの愛による私たちの生き方の変革のことを言います。
「キリストの愛による私たちの生き方の変革」について話をするのですが、今日この配信をご覧いただいているクリスチャンの皆さんは、ご自身のクリスチャンとしての人生を振り返った時、どのような変革を経験してこられたでしょうか。
先週は、私たちはしばしば神さまに喜ばれようとして、自分の意志によって自分をコントロールし、むしろ心頑なになってしまう傾向があると話しました。その中でもさえ、神さまは私たちに素晴らしいものを与えくださるかもしれません。しかし、神が私たちに望んでおられるのは、ご自身の愛に浸りきることです。
多くのクリスチャンの方は、様々な方法で神の愛を感じてきたと思います。私もそうです。イエス・キリストを信じた時、イエス・キリストに倣い、生きると決断しました。しかし、神の愛に浸りきり、キリストの愛によって私たちの生き方が変わったかというと少し、自信無げになるかもしれません。以前、こんな教会で言葉を聞きました。「人間の性格は変わらないよね」それは実際どういう意味なのでしょうか?デビッド・ベナーは言います。「愛の体験が、たとえ神の愛であっても、必ずしも変容をもたらすとは限らないということです。」
神の愛に出会っても、神が私たちを根本から変えられないとしたら、神の愛とはなんでしょうか。それとも、それは「人間は罪びとだからどうしようもない」のでしょうか。先週のみ言葉、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。(2コリ 3:18)

これは、単なる絵に描いた餅のようなものでしょうか。
今日のタイトルを「ありのままの私を知るということ」としましたが、「ありのままの私」とは、「わがままな私」「短気な私」「罪深い私」というようなものではありません。もっと心の奥深くにあって、私たちの人格に大きな影響を与えている様々な感情です。
私は「トラウマヒーリング協会」のファシリテイターをしていますが、わたしたちが主催しているトラウマリカバリーグループにある牧師さんが参加してくださいました。「自分には、トラウマになるような経験もしたことないし、トラウマリカバリーグループとはどういうものかを知りたい」という理由で参加してくださいました。他の参加者の方々の様々な傷ついた経験を聴きながら、自分の内にある様々な悲しみ、傷、そして人を赦せない感情が湧き出てくることに気がついたそうです。実は、これこそが「ありのままの私」です。
私たちは普段は、その傷に気がつきません。気がつかないように生きているからです。いろいろな鎧を身に着け、自分でも傷を感じないように、人に傷を見せないように生きている。これが「ありのままの私」「裸の私」です。それはすでに私自身になっていて、自分でも気がつきません。
神学校の「霊的形成;スピリチュアル・フォーメーション」のクラスでは、自分の祖父母にまでさかのぼり、自分の家族関係に調べていきます。単に私の個人的な経験だけでなく、自分の祖父母、親たちの経験が、つまり家族の心の傷が、私たちに受け継がれていることがあります。
まず、私たちの人生の変革に必要なことは、このような傷、悲しみ、弱さに気がつくことです。先週ご紹介したLectio Divinaは、自分の心の奥底の傷に気がつくきっかけになることがあります。
ここでベナーは、面白いことを言っています。「人生を変えるのは、無条件に愛されることではありません。それは、無条件に愛されることを自分に許すという危険な経験なのです。」
あえて自分を受け入れ、裸と弱さのままの自分を愛してもらうことが、真の変容に不可欠な前提条件です。「裸と弱さのままの自分」というのは、どんなに親しい友人でも話すことができないかもしれません。「裸と弱さのままの自分」は、考えるだけで寒気がするようなものかもしれません。LGBTQの方で、「高校生のころや、若いころは、自分の性自認や性指向性が自分でも赦せなかった」という話を聞くことがあります。自分でさえ許すことのできない自分に神に愛してもらうことを受けいれることです。
それは、「聖書にこう書いてあるから、私は神の愛を信じます!」とじ自分を納得させることではありません。神の愛に浸ることが大切です。浸り続けます。最初は違和感があるかもしれません。神はあなたを愛することに飽きることがありません。
しばしば、プロテスタントの間では、感情よりも聖書の真理の方が大切だと言います。いいえ、私たちの感情も同じように大切です。愛されているような振りや、愛されているような思い込みとは違います。先週も言いましたが、愛とは意図的なものではありません。自発的なものです。ベナーは言います。「私たちは、神との出会いのために、自分の最も見栄えのする部分を持っていこうとするのが自然な傾向です。」神の前に、意図的に良さそうな部分だけを持ち出そうとするのです。神が望んでいるのは、そんなものではありません。
イエスが福音書の中で出会った人々で、イエスを信じた人たちはそんな人たちではありませんでした。長血の女性、娘を亡くした男性、ニコデモ、取税人、姦淫をしたと訴えられた女性。自分の中の苦しみ、悲しみ、絶望、恥で、自分が抑えられなくなってしまった人、またそれらを人前にさらされてしまった人です。そういう人々が、本当にイエスの愛を感じ、受け取りました。だから、彼らは更にイエスを信頼し、イエスに従う道を選びました。この心の奥底にしまい込んでいる弱さこそ、生き方の変革のポイントです。「弱さ」をなくしましょう、忘れましょうということではありません。「弱さ」こそが、神の愛を深く知り、自分の変革のポイントだということです。
そして、「ありのままの私」「弱い私」を知り、神の愛を知るのに、もう一つ大切なのは、人の愛です。愛してくれる人です。あなたのすべてなど、誰にも打ち明けられないかもしれない。しかし、あなたを思って、愛してくれる人が必要です。親であり、友人かもしれません。人の愛は十分ではないかもしれませんが、神の愛を知るためには、人の愛が必要です。間接的にでも、神の愛を知ることができるからです。
そして、ここで問題です。あなたを愛してくれる人はどこにいるでしょうか。そして、さらに大きな問題です。あなたの愛を必要としている人はいないでしょうか。来週、このお話しをしたいとおもいます。

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