時代は変わる(The Times They Are A-Changin')
ルカ 2:1-20
先週は、聖霊によってイエスを身ごもるマリアのことを中心にお話しいたしました。今日はイエスが誕生した時の話です。よく知られた話ですが、羊飼いにメシアの誕生が告げられます。先週の話の続きから話とすると、羊飼いというと、イスラエルの社会経済的には、マリアと同じく最下層に属する人々です。イエスの到来と誕生は、初めからそのような人々に伝えられました。羊飼いたちに語られた言葉は、10-11節です。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
「大きな喜びを告げ知らせます」という文は、英語でいろいろな翻訳がなされています。
「大きな喜びの良い知らせを告げます」
「大きな喜びをもたらす良い知らせを告げます」
ここで鍵になるのは、「良い知らせ」という言葉です。「良い知らせ」という言葉は、ギリシャ・ローマ文化では、ローマの将軍が戦争に勝った時の「知らせ」を指します。この時代には、アウグストゥスという初代ローマ皇帝がいましたから、「良い知らせ」はアウグストゥスの勝利の意味を含んでいるはずです。キリスト教では、「福音」という言葉を使いますが、「良い知らせ」という意味のギリシャ語を「福音」と訳しています。
「良い知らせ」とは、11節
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
「救い主」という言葉もトリッキーです。ギリシャ語では、王や皇帝にも使われます。他の神々、支配者、医者にも使われている普通名詞です。アウグストゥスが救い主なら、すでに皇帝の地位にいますから、今更生まれることはありません。「救い主」とはメシアです。このメシアはダビデ王の家系につらなるメシアです。そのメシアは、飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんです。貧しさの象徴である飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんをメシアと呼ぶのです。同時に、アウグストゥス以外の本当の「救い主」がいると宣言します。
ルカの福音書が書かれたのは、紀元70年前後と言われています。エルサレム神殿がローマに滅ぼされた前後です。70年より前なら、エルサレムには危機が迫っています。70年より後なら、クリスチャンたち、特にユダヤ人クリスチャンたちは、ローマ皇帝のパワーをまざまざと見せつけられたことでしょう。
しかし、ルカは言います。「良い知らせ」とは何か。「救い主」とは誰か。「メシア」とは誰か。貧しい姿でやってこられたナザレのイエスこそが、「救い主」であり「メシア」なのだと。そのイエスが、「良い知らせ」を語るのだ。イエスこそが良い知らせなのだ。全世界を支配しているのは誰か。アウグストゥスではない。神なのだ。メシアであるイエスなのだ。イスラエルよ、見なさい。ダビデの王家のイエスが王なのだ。もう時代は変わった!」
今日のタイトルは、完全にボブ・ディランの曲のタイトルをパクっています。ルカは、9章62節でこう言っています。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」時代の変化に緊急に対応する必要があります。ローマは絶頂期に向けて突き進んでいます。しかし、実はすでに終焉しています。本当の王、支配者である神、イエス・キリストがやってきたからです。時代はすでに変わったのです。
王であり、救い主であり、メシアであるイエスの到来は私たちと何の関係があるのでしょうか。
2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和が
みこころにかなう人々にあるように。」
「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」「みこころにかなう人」をクリスチャンと限定的に考える必要はありません。神はすべての人間、被造物を愛しているからです。そして、その人々に「平和」が与えられるのでしょうか。
私のクリスチャンとしての人生で、「平和」という言葉はヘブライ語で「シャローム」だと教えられてきました。シャロームの意味、ユダヤ文化でのシャロームの意味などを聞いたこともあります。しかし、日本語で「平和」といっても、私たちが考えている「平和」の意味、「平和」のイメージは、人によって大きく違います。
イエスはマタイの福音書でこう言っています。
5:9 平和をつくる者は幸いです。 その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
シャロームを作るとはどういう意味でしょうか。それは、イエスの生き様の中に見ることができます。イエスは「平和」とは「シャローム」とは何かを説明することはありませんでした。しかし、「平和」「シャローム」を生きました。私たちが平和をつくり出すことはできません。「平和」とはイエスの生きた道を私たちも生きることです。
「平和」が支配する世界とは、どんなところでしょうか。マリアはこう歌いました。
1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、
心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、
低い者を高く引き上げられました。
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、
富む者を何も持たせずに追い返されました。
貧しい者が満たされ、悲しむ者が笑い、正義を求める人々に正義がなされる世界です。それが平和な世界です。マリアはあたかもその世界が来たかのように歌います。その世界はイエスの到来とともにきました。しかし、まだ完成はしていないのです。
クリスマスはイエスの到来という良い知らせが全世界に告げられた日です。抑圧されている人々には良い知らせです。しかし、良い知らせがすぐに現実になることはないのです。苦しみは続きます。
抑圧する側にいる人間にとっては、イエスの道をたどり、平和を生きるとは、苦しみを伴います。マタイの福音書に出てくるお金持ちの青年は、貧しい人を助けることを拒否して、イエスから離れました。それは今も変わりません。
クリスマスに神が呼び求めているのは、イエスの平和の道を歩む人々です。そして、イエスの平和の道を歩むならば、苦難は決して避けられません。それにも関わらず、イエス・キリストが再び地上に来られて、神の平和を完成するまで、期待を持ちながら歩む人々を神は呼び求めています。
イエスの到来から時代は変わりました。今、私たちは苦難とともにイエスの平和を求める人生を送る時代になったのです。ボブ・ディランは言います。「父よ母よ、もう古い道は朽ち果てるんだ。僕たちに手を貸せないんだったら、邪魔しないでくれ!時代はもう変わってるんだよ」
生まれたばかりのイエスを通して神は言います。「時代は変わったんだ」
何が罪で、何が罪でないかという世界に留まりたい人たちがいます。それこそがキリスト教の神髄だと信じている人たちがいます。そういう世界を後にして、私たちは前に進みましょう。苦しむ人たちと共に歩みながら、私たちを苦しめるすべての壁を取り払う。イエスが歩んできた道を、またイエスに倣って平和のために生きてきた多くの先人たちの道を歩みたいと思います。これが、イエスの誕生を通して、神が私たちに伝えたいメッセージです。
私たちは、LGBTQとアライのための教会として、キリストの平和を生きたいと思います。苦難を厭わずにキリストの平和を行きたいと思います。クリスマスは新しい時代の幕開けを宣言しました。新しい時代を生きて行きましょう。