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愛こそはすべて

雅歌6:3 私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。
 
雅歌はパートナーが愛を育み、その愛が深まっていく様子を描いている書物です。雅歌自体は、シス女性とシス男性との関係についてですが、二人は夫婦ではありません。親密なパートナーの関係はどういうものかを表しています。聖書だからといって、雅歌もすべて神と人間の関係について書いているというわけでもありません。

しかし、雅歌6:3が言っている親密なパートナーの関係は、神と私たちとの関係から生まれるからです。

「私は、私を愛してくださる神のもの。私を愛してくださる神は私のもの。」と言い換えることもできます。

前回お話ししましたが、神は人を愛することに飽きることはありません。そして、私たちがこの神のところに来たら、その神との関係づくりが始まります。「関係づくり」とは、私たちが神を信頼するということです。信頼が愛を産みます。この神の愛に完全に信頼することを、デビッド・ベナーという神学者は、「神の愛への降伏」と呼びます。

「神の愛への降伏」とは、何でしょうか。キリスト教的に言うと、「自分の意志よりもイエスの意志を優先する」ということです。

しかし、多くの場合、私たちは勘違いをしてしまいます。しばしば、私たちはこう考えます。「『神に従順』『聖書に従順』でなければならない」と考えます。そして、自分なりに「神に従おう」「聖書に従おう」と頑張ります。何度も何度も熱心に「神にすべてを委ね」ようとします。そして、神に従うこともすべてを委ねることにも失敗してしまうのです。それを「クリスチャンの従順さの現われ」と考えます。
 
多くのクリスチャンがしていることは、「聖書に書かれていると思われる義務を一生懸命に果たそうしている」ということです。「聖霊に委ねて・・・」と言いながら、本当は「自分の意志の力」によって、自分を変えようとします。「イエスを愛そう」「神を愛そう」と自分の意志に働きかけようとします。

スピリチュアリティの最初の話で、デビッド・ベナーの信仰の旅路のことを話しましたが、彼の若いころの信仰は、「神に喜ばれるように生きる」「神の罰を受けないように生きる」という生き方で、神を恐れていました。クリスチャンの多くは、ベナーの道をたどっています。

ベナーは言います。「神に従おう」「聖書に従おう」という生き方は、ほとんどの場合失敗します。この生き方は、神と人への愛を育むよりは、人間の自己中心性を強化するか、心をかたくなにしてしまうか、高慢になるかです。そして、本来私たちが求めている愛、あの放蕩息子の父が表した愛、そして愛の温かみを感じることができません。感じることができないものを、感じたことがないものを、誰かに与えることはできません。

「自分の意志よりもイエスの意志を優先する」とは、規則を守るという意味ではありません。雅歌が「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」という時、信頼と愛で、パートナーに身を委ねていく状態です。神が望んでおられるのは、人間がご自身と愛と友情を育むことです。そして、あなたが周りの人たちと愛と友情を育むことです。それを「神の愛への降伏」と呼びます。自発的に注ぎだされる愛です、私たちが自分のパートナーを愛するということは、そういうことではないでしょうか。神との愛も同じです。

「神に従う」ということは、すなわち「神の愛に降伏すること」です。「神の愛に降伏する」とは、「神の愛を感じる」ところから始まります。そして、その愛に浸りきることです。「神は愛である」ということを理解しているだけでは足りません。

では、「神の愛に降伏する」ために、どんなことができるでしょうか。それは、第一に祈りです。こんな風に聖書を読むのはいかがでしょうか。キリスト教の伝統では、「Lectio Divina」と言います。

ルカの福音書の「放蕩息子」の例えばなしを読んでみます。ゆっくり読みます。自分がまるで、そのストーリーの中にいるように読んでいきます。それから、ストーリーの中で心にとまったことばを口ずさんでみます。例えば、ルカの福音書の15:20の「父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」このみ言葉を口ずさみながら、自分の中に沸き上がってくる感情や想いも感じてください。それから、神に語りかけてみましょう。「主よ、神よ、私もこのように駆け寄ってきてほしい。」私なら、神が、イエスが、私のところに駆け寄ってきて、抱きしめてくださることを想像しながら、神に留まります。この読み方を「Lectio Divina」と言います。30分ほどをこれを行うとよいと思います。忙しい日々で、「Lectio Divina」を毎日行うことは難しいかもしれません。しかし、聖書を通して、神の愛を感じる素晴らしい訓練です。

そして、もう一つは「自分の意志よりもイエスの意志を優先する」ことを実践することです。この「イエスの意志を優先する」という言葉は、長い間誤って理解されてきました。特に20世紀から21世紀にかけて、その誤りは顕著になりました。「イエスの意志を優先する」ということを、ある種の方法で伝道することを意味しました。つまり、世の中の人がどう思おうと、すべての人は罪びとなので、その罪を悔い改めさせることが最も重要だと考えました。そうすることで、「人に嫌がられるかもしれないけれど、それがイエスの意志を優先することであり、本当の愛だ」と考えるようになってしまいました。人間一人一人が置かれている事情など脇に置いて、とにかく「『あー私も罪びとでした。イエス様を信じます』と言わせること」が「愛」だとしてしまいました。

その一方で、クリスチャンの中には、愛の実践への強いあこがれもあります。12世紀のイタリアの修道士アッシジのフレンチェスコのように、貧しい人たち、病気の人たちと一緒に暮らし、彼らに仕えた人がいます。クリスチャンの中にそのような人へのあこがれがあります。

LGBTQとアライの様々な団体があり、地域地域でいろいろなイベントも行われています。クリスチャンが、そういう団体で働いたり、友人となることもできます。ある友人が言いました。セクマイでありクリスチャンである彼は、以前はクリスチャンや教会というのは恐ろしいと感じていたです。

私たちの役割は、アッシジのフレンチェスコのように、困難を抱えている人に、社会の中で差別され、苦しめられているところに行き、私はあなたたちの味方です。一緒に生きて行きましょうと言うことです。ある人たちに、キリスト教の教義を理解させ、キリスト教徒にすることではありません。私たちの役割は、隣人に仕えることです。仕えることを通して、私たちに与えられている神の愛が表現されていきます。

しかし、私たちの人生はこれで終わりません。聖書はこう言います。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。(2コリ 3:18)

クリスチャンは、主と、キリストと同じ姿に変えられていくと言います。「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」と神の愛を感じ取った私たちの愛は更に深まります。そして、私たちの愛は、さらにさらに、キリストの愛とともに成長していきます。キリスト教では、トランスフォーメーションと言いますが、キリストの愛による私たちの生き方の変革です。失敗することもあります。神の愛が分からなくなることもあります。しかし、それでも、永遠に私たちは愛する方のものです。

来週は、どのように私たちの生き方は変えられて行くのかについて話したいと思います。

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